コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 両価思考2013. 7.27

すべての物事、事柄には少なくとも2方向の考え方があり、筆者の場合これを無意識に行っていることに気づいたので、このことを少し書き置いてみたい。

たとえば、今は老いること、老化については否定的な見方をする傾向があり、アンチエイジングがひとつのブームというか、社会のひとつのトレンドを形成しているように見える。
けれども老いるということは衰える、弱る、固くなる、枯れるなどのマイナスイメージが強調されるキライがあるが、両価的に考えると、それは長生きした証ということであり、円熟とか老成とか人生の完成に向けて尚一層精神的成熟に磨きをかけるには好都合と言えるかも知れない。

肉体の欲望が減衰し、感覚も鈍麻し、脆く壊れやすい肉体は、精神のさらなる上昇を自然的にその持ち主に求める・・・ような気がする。

つまり、より精神性とか教養とか知識経験とか智恵とかをその人の「人生の快楽」を得る為、肉体の快楽より精神の快楽に向けさせるのではないかと考えるのである。
純粋に時間軸だけで人類全体を捉えると、すべての人間たちは死の滝に向かって静かに、しかし確実に流れ進むあわれな(?)大河の一滴であり、山麓から湧き出づる小さな生命の水たちもまた最終目的地は明瞭明確に深い滝壷であり海であるのだ。
蒸発というカタチで天に昇る水(人間)も多分に見られるけれど、生命の自然な循環とは永遠のように流れつづける、長く曲がりくねった大河であり、小川であるのだ。そうして一粒の雨ように人間の誕生となって地上に舞い降りる。このようなイメージが筆者の持つ人生についての感性である。

このように思量してみると、老いを過ごすには大河のようにゆったりと悠然と物に動じず、粛々と滝や海に落ちる精神的準備をするべきであり、川上の激流や雨嵐に対して、その自然の雄大さ、無常さ、死の必然さを幼者若者に教え伝えるべきであろうと思える。
少し話がそれてしまったが、全人的・両価的に考えてみると「老い」というものもまた一般の感覚とは違って見えてくる筈である。

世界平和の実現と飢餓や貧困の解決は、人類にとって喫緊の大問題であるが、これの対策、方策については未だに明らかな手段を見つけられないでいる。
月や火星へロケットを打ち上げる程の物理科学の発展進化の割には、人間の日常の生活向上の為の経済メカニズムや政治体制の進化発展が殆ど見られないのはいったいどうしたワケであろうか。

太古の昔からくらべても、精神的には、まるで退化しているのではないかと思えるくらい、人間の多くはますます強欲になり、贅沢や安楽や肉体の感覚だけを満足させる浅薄な快楽に明け暮れ、暴力の道具(武器兵器)の開発や対立、抗争に夢中になって自らを滅ぼそうとしているかに見える。

偉大な個人の叡智は人類全体に行き届かない・・・というひとつの仮定、原則は大昔から全く不変のようである。

現代の文明は高度な科学技術を幼稚な子供が取り扱っているように見える。
この人間の精神と物質文明の乖離が、一部の著しい科学技術の進化発展の早さと強さのためにさらに際立って見える。

いったいいつになったら人類は、全員ヨーイドンで一緒に覚醒することができるのであろうか。

キリストやブッダやムハンマドや老子、孔子、クリシュナの嘆き?はいまだにつづいているのだ・・・多分。

自己肯定と自己否定も両価的に考えると、人間の健康は社会活動において両者の立場を行ったり来たりしなければならない。
ビジネスの世界では殆んど完全に自己否定的であらねばならない。
絶えず自己を否定することで新しい技術革新(イノベーション)しつづけなければ生き残ることはできない。
けれども精神的・内面的には全く逆で、自己肯定感100%が良い。
「自分はありのままでOKですヨ」「自分はよく頑張っていますヨ」という自己肯定感は、理想としては貧者のようにつつましく生きていきたいか、富者のように悠然と生きていきたいか、これらの選択は本来自由であるのに、なぜか一定の条件が揃わないと自己肯定感も自己否定感もバランス良く併持できないようだ。

女性と男性、大人と子供、老者と若者、大と小、多と少、裏と表、長と短、上と下、高と低などこの世のありとあらゆる事柄は対立する2つの概念によって表現され語られるが、そのことを明晰な頭脳で深考するならば、人間の個人の精神にやすらぎと安心と活力と元気を生じせしめる筈だ。
物事の両方の価値を考える、両価思考は現代人のまっとうな生き方に必要な技術ではないだろうか。昔からあるディベートなどはこの考え方で行われるが、あらためてシッカリとあらゆる事柄を正反対の立場に立って考えることを、個人のアタマで行なえば冷静でクールで最良の判断決断ができるのではないだろうか。

物事を両価的に考えると、興味深いアイデアが山のように思い浮かぶ。社会や政治体制が一方に偏りやすいのは周知のことであるが、最近では原子力発電や憲法改正についてなどでも極端な政治的オピニオンが一般大衆から疎んじられているのに、一部の政治家が両価思考的なセンスを持たないで単価的な発言を繰り返し落選するのを見ていると、社会の方が政治よりも賢くなってきているとも思える。この傾向は現在の選挙制度の妥当性にとって好もしい現象と思える。

最低でも個人や大衆の精神生活においては、一方の考え方に偏ってはならない・・・というのが筆者のひとつの見識である。本来は賢くあるべき政治家が何となく単細胞的、単価思考的であるのは残念なことである。彼らが直感的でバランスの良い芳醇な知恵を持っている一般大衆を見下しているように思える。豊富で潤沢な情報や知識や知恵は、昔日のように一部の特権的身分の人々の占有物ではなくなっているのだ。

ありがとうございました
M田朋久



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