コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

[戻る]
■ 愛と死と2013. 6.26

渡辺淳一の長編小説「愛の流刑地」は日本経済新聞に連載され、人気を博し、豊川悦司・寺島しのぶの主演で映画化され、そこそこに売れたらしい。

この小説は「不倫」がテーマで、愛の表現として「殺人」というものがあるのだよ・・・と世間に広く知らしめてくれた割にシリアスな物語である。
お互いに家庭のある男女が恋に落ちて深い仲になり、嫉妬やら罪悪感やら、嘘やら欲望に
懊悩する姿を描いてあるワケであるが、世界中どこにでもあるとてもありきたりで普遍的で普通で平凡なテーマである。

ところが結末が殺人事件であり、裁判であり、受刑であるところが異様であり、異端であり小説としての面白さを極端な設定で表現しているワケであるから流石に小説家というのは違うなぁ、芸術というものの奥深さをあらためて感じさせられた作品ではあった。

心理的に愛と死はいつも不可分であるし、殺人事件の多くが純粋に経済的な背景を除けば、殆んどすべて男女の愛憎劇が起点になっていることを思えば、渡辺氏の小説も本質的には誠に陳腐であるものの、物語の面白さを滅殺するものではない。

「愛する男性に自分を殺させてその愛を完遂させる」というのは、その手段・手法としてとても興味深く、SM プレイまがいの性行為の中で、自分の首を絞めさせ、はずみで殺してしまった・・・という不倫相手に深く愛されている男のとまどいが或る種の強いリアリティーでもって表現されているが、最終的に先述した女性の心理がカラクリとして謎解きのサスペンス小説のような構成になっている。


究極の愛の表現が自死であることは、ひとつの古典的カタチであるが、確かに筆者の経験でも人生で最も愛した人、愛してくれた人のほとんど自死に近い愛のカタチを間近で見た時に表題の愛と死について深く考えずにはおかれない。

最愛の人というのは父親であるが、妻と子供と酒をこよなく愛し、その愛の中で割にあっさりと見事に死んで見せたワケで、これは結果論で本心はもっと長生きしたかったであろうし、娘の花嫁姿や息子の結婚式や、立身や孫の出生を心密かに楽しみにしていたと思うのであるが、生前度々口にしていたように「自分が死んでみせないと息子はマトモにならない」とか「長生きして老醜を晒したくない」とかの言葉を聞いていたので、その複雑な生い立ち(幼児期に兄弟と実母から引き離され養子に出された)と相まって50才という夭逝にまっしぐらに突き進んでしまった・・・とも言えるので、愛によって死を選んだとも断言できないが、少なくとも筆者自身は「父親への愛」が砂漠に高々とそびえるピラミッドのように重く、厳然と心の中に存し、その愛の力によって逞しく物に動じず生きて行けるという自覚を持っている。
つまり父親の愛というのが自分の人生の青々と繁れる巨大な神木のような意味を持っているのは確かなのである。
ありがたいことだ。

もう一人愛する人、愛してくれる人は若い女性であるが、不思議なことにこの女性も酒を愛し、タバコを愛し、家族や友を愛し純粋で清らかな心を持っている女性で、周囲の人々に純心と明るさと愛とをふりまき、また個人的には筆者に対してその愛を極限まで純化させ、あらゆる条件を排し自分を愛してくれたように思える。
そうして自らの死によってその愛を完成させたとも言えるし、父親と同じように本心ではもっと長生きをして人生の喜びを満喫したいと欲求はあったと思うのだけれども、老いを受け入れない、本人に自覚はないものの強い美への執念を感じ、またその激しい愛念、それから惹起される孤独感の為に自らを悲しい自死、早逝に追いやったとも思える。

いずれにしても死をもってあがなわれた「愛」は巨山のように微動だにせず、深海のように暗寂として、生ける者たちを勇気づける。

父の死の時には通夜の晩、夜通し枕元に手をついて涙を流しつづけた。
大きな涙玉が梅雨の日の雨だれのように畳の上で大きな音を立てた。
彼女の死は悲しみの涙が永遠であることを気づかせてくれた。
死が愛によって永遠になることを多くの歴史や家族、恋人のそれが人々に教えてくれる。
そうしてそれらの事実が真の意味は生命というものが生と死の単純な循環などではなく、人間の魂と神の愛との複合創造物であり、悲しみという人間の感情は今生きる人、生きている人にとってとても大切な、自らと他者や死者の愛に気づかせてくれる尊い心の活動である・・・ことを気づかせてくれる。

ありがとうございました
M田朋久



濱田.comへ戻る浜田醫院(浜田医院)コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせいよくある質問youtubeハッピー講座