コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ どうもない2013. 6.20

健康診断とか人間ドックとかいう、主に医療機関の行う健康管理の目的というのは、この「どうもない」つまり自覚的に「何もない」人々を対象に行われるものである。

時々、痛みや倦怠感などカラダの不調時に、自分の病気の検査を目的として個人的に「健康診断」やドックを利用される方がおられるが、これは本来の目的にそぐわないものである。

あくまで「何ともない」「どうもない」人々、つまり自覚的に健康と思っている人を対象に健診があると考えて良い。

ところで重い病気、深刻な病気や悪性の病気など、とても人生をややこしくする厄介な肉体の病を得られる方の多くに、普段この「どうもない」「何ともない」つまり自覚症状の乏しい方が多いのには驚かされる。

一般の人々には意外に思われるかも知れないが、心身の不調を訴えて度々来院される方には、このような病気の発症は少ない。
訴えの多い人々、所謂、有訴者というのは65才以上の高齢者の50%で女性が多いが、これらの人々には逆に降って湧いたような深刻な疾病は生じにくいと考えて良いかも知れない。

以前、渡辺淳一の著書で「鈍感力」というのがあったが、少なくとも自分の感情やそれに連なる肉体の訴えについては鈍感よりも敏感の方がはるかによろしかろうと思える。
何故ならば「痛み」というものは、それが心にしろ、カラダにしろ、ひとつの危険信号であり、ハザードランプであり、交通事故の時の発煙筒のようなものなので、これが全く無いというのは或る意味危険極まりない・・・と考えられる。

極めて稀な病気で「無痛症」というのがあるらしいが、この病気の人は当然ながら長生きできない。
骨折しても打撲しても痛くなかったら、もしくは疲れていても「疲労感」を感じなかったらとんでもなくカラダに無理や無茶をして傷めてしまい、早死早老は免れないと思える。

カラダにもココロにも神経的に繊細な方が健康に良いのだ。
「神経質」というのは神経や心に悪いので、敢えて「神経的に・・・」と表現したが、このあたりのセンスは理解して欲しい。

怒りや悲しみ、恐れなど否定的な感情の抑圧や無視、あるいは「失感情症(アレキシサイミア)」のように感情が無い人の場合、大概とても悪性の病気になられる方が多いが、これは「無痛症」の人の理屈が良く似ている。

学者の中には全ての病気はストレスから発生し、また抑圧感情をおしこめた潜在意識から生じるという説を唱えられている方がおられるが、これもまたとても理にかなっている。

先述した「失感情症」の治療法は今のところ無いに等しいくらい難しいし、抑圧感情の処理についても余程注意深く意識し、確認し開放してあげないとカラダは悲鳴を上げ、血圧を上昇させ、血糖値を変動させる。
そのような意味で、歌やカラオケ、適度な運動というのがあるが、これもまた皮肉なことに上記のような人々はこれを嫌う方が多い。
多くの悪性腫瘍などをはじめ、発病初期の段階で「痛み」があれば健診など必要が無い。
多くの慢性疾患(高血圧、高脂血症、糖尿病、癌など)は自覚症状が無いから困るのであって、それがあれば早々に病院に行って検査し、治療し治ってしまう筈であるし、健康診断そのものも不要になる。

ことほど左様に「痛みがある」「どうかある」というのは大事で「どうもない」ことの危険も理解できよう。
心療内科で心の病気の人を治療していると、これらの人々で治療に良い反応をする人、つまり治っていく人というのは或る意味幸福な人達ではないかと思える。

心の痛みを通じて自らの人生や人間関係、仕事や恋愛についてよく考えることができるからである。
心の痛みが人生の「テーマ」を提示してくれているとも言えるからだ。

結論として「どうもない」人は早く病院に行って検査しましょう。
「どうかある人」も病院に行って「痛み、苦しみ」について、よく検討・検査しましょう。

病気と健康は明確に分けられるものではないのだ。
それと同じく、どうかあるから病気があるとは限らず、どうもないから病気が無いとは言えない。
だるい、キツイ、眠い、あちこち痛い、眠れない等々のさまざまの体調不良感覚は、ある意味心や体を護ってくれる大切なフィードバックシステムであるのだ。であるならばそれらの一見マイナスの感覚をありがたく感じて自分の心身の健康の保持に役立てるべき性質のモノなのである。
そういう意味ではある程度どうかある方が正常なのかも知れない。
檳榔な話で恐縮ながら、たとえば排尿排便など排泄を我慢する、放屁欲求、若い人が性欲の解放を我慢する。満員電車で長く立っている、重い荷物を持って歩く、長時間の好きでない労働なども苦痛そのものである。それらがもたらすであろう苦痛も肉体のの発する貴重な信号である。それらへの過剰な忍耐や無視無感覚がからだに良いワケがない。

人間は常にどうかあるものだ。ある意味、生きている証拠とも言える。
決して全くどうもないなどと威張っていてはイケナイ。
健康な人生のために。

ありがとうございました
M田朋久



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