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■ 楽しく生きる | 2013. 6.16 |
三重苦(視覚・聴覚・言語の障害)で偉人のヘレン・ケラーは、いつも楽しそうに、上機嫌で生きていたそうであるが、周囲の人にその理由を問われ「今日が最期の日と思って生きている」との答えだったらしい。 ご存知のように人生は有限であり、実のところ、その終焉がいつ何時おとずれるか分からない・・・というのが真実であるが、意外にこのことは忘れられている。 少なくとも多くの人々の行動を観察していると、この厳然たる真理を深く自覚し、心に銘記しているようには見えない。 自分も含めて不思議なことである。 多分、忘れっぽいのであろう。 日常に、雑事に追われ、さまざまな欲望・煩悩で頭をいっぱいにして、この大切な心理をついつい置き去りにして、本来は楽しかるべき人生を無駄に、勝手に楽しくなくしているのである。 無意識、無自覚に・・・。 普段から意識して今流行りの「今でしょ」じゃないけれど「今日しかない」「今しかない」と思い過ごしていると、妙に清々しい気分になり、時間とお金と生命エネルギーを有効活用できるようで確かに楽しい。 逆に言うと、降って湧いたように心に起こる「憂鬱さ」とか「不安」とかは「今ここ」にいないことで生じるようで「今ここ、ありのまま」の「静寂」を心から味わうと、何をしていても楽しくなり、心が軽くなる。 考えてみると、すべては無なのだ。 虚なのだ。 虚とか無から愛が生まれるのだ。 富や地位など、この世のあらゆる豊かさを得たとしても、愛が無ければ本当の幸福は得られない。 それこそ深い虚無感を味わうこと。 そこで、逆に深い虚無感に浸り切り、沈潜し、没入しているとみるみる不思議なエネルギーを感じ取ることができる。 そのような観点からなら、楽しく生きる為には人生に意味など求めないことだ。 全て虚無で、無意味で悲しいほど短く有限な人生。 この儚い命を満喫する為には無限の命、即ち魂の輪廻、今ここ、この瞬間の永遠を知ることだ。 心の静寂をしっかりと味わう時には無限の精神的エネルギーと人生の真のヨロコビを心から感じとることができる筈だ。 正常の感覚を持たないヘレン・ケラーが、それを体得しているのにも確かな理由があると思える。 正常な人間は感覚に騙されるのだ。 視覚を頂点とした聴覚の感覚の喜びの為に、心の喜び、愛の喜びを感じとれなくなってしまうのであろう。 心の喜びを、生命の喜びを、楽しみを勝ち得る為に、逆に心の沈黙、感覚の滅殺が必要になるのだ。 それは高僧の座禅であり、悟りを開いた深い瞑想に近い感覚なのかも知れない。 人は確実に老いている。 着々と死に向かっている。 そのことをキッチリ自覚する時、その人に生き方は自然に変化していく筈だ。 「愛の喜び」以外には人生の喜びが全く無意味であることに気づき、人間生活、社会での種々の活動がすべてそれら、人間の愛、神の愛、即ちに社会や自然に満たされ、大自然の中で悠々と遊ぶ猛獣や、天高く舞飛ぶ鷲のように真にくつろいで、楽しく生きていけるにちがいない。 静寂と死 虚無と愛 多くの聖人、哲人の言葉にはすべてこれらのエッセンスが含まれているような気がする。 「楽しく生きる」秘宝のようなコツが幾人かの偉人と、多くの賢人の言葉に正直に、真っ直ぐに表現してあり、それらを正しく受け取るのは実に簡単なことなのだ。 ただ痛ましいほど正直に心を開いて、ただ今ここをありのままに受け取れば良いのだ。心の目を開いて...。 しかし何でこんな文章になったんだろう?不思議。 ありがとうございました M田朋久 |