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■ ビヨンド | 2013. 6. 6 |
北野武のヤクザ映画シリーズ、アウトレイジ ビヨンドのDVDが売れているらしい。 北野作品はご存知のようにキワモノの暴力映画である。 それを美しい「キタノブルー」青々とした画面が映像をキリッと引き締めて、或る種の緊張感と優しさと静寂と「モノクロ」ならぬ「モノアオ」とも呼べる独特の「美」を提供してくれる。 アウトレイジ、形容詞にすると「不公平や悪に対して腹を立てること」。 ビヨンドは「・・・過ぎて」。 主人公が怒りの爆発を唐突に思い切りさせるところが受けるのであろう。 確かにストレス解消、スカッとする無条件の精神的カタルシスを得られる作品ではある。 北野作品を貫いているテーマは、表面的には「暴力」である。 氏のお笑い芸人時代のツービート(漫才コンビ)の表現するお笑いの世界は、激しい攻撃性を内に秘めたブラックユーモアであった。 ユーモアも心理的には攻撃であり、言葉の暴力であるそうな。 超長寿老舗番組、笑点などを観てもそのことをハッキリと感じ取ることが出来る。 お笑いと暴力。テレビと映画でその両方を巧みに表現する北野武。 今回の作品では、お笑いをキッパリと締め出して、いつもの暴力も幾分か「痛さ」を抑えて、ある意味、古典的なヤクザ映画を連発させヒットさせて映画界にあらためてその存在感を示した。 ベネチア映画祭金獅子賞の「HANABI」よりも感動は無いけれど、その分、自分勝手で感情的ながら鋭く強烈で激しい「正義」への意志を感じる。 北野映画には自己を捨てても「スジを通す」日本の武士道精神、昔の任侠映画や時代劇の美学を感じるし、日本人の持つ独特の価値観を内包していて、ある種の精神性の高さも感じさせる。 新しくて古い映画。伝統的な日本の文化を、映画という極めて大衆的で娯楽性の高い総合芸術を通して世界に提供してくれているのである。 有難いことだ。 主にヨーロッパで人気が高いらしいが、たとえばフランス映画のフィルム・ノワール(暗黒映画)の独特な暗い色彩を浮世絵風に色鮮やかに創出してあり、そのリアルな暴力描写と繊細な色彩感覚に共通点も多い。 「HANABI」「BROTHER」「座頭市」「Out rage」1・2弾、いずれも新しいスタイルのヤクザ映画である。厳密にはジャンルが異なるが、少なくともマフィアとか盗賊団とか暴力組織に関わる主人公を巨匠たけし親分が演じている。 これらの暴力映画には、善悪正邪を超えて男の世界の厳しい掟があり、道があり、美学がある・・ように見える。 今の殆んど完全に女性化している日本の風俗をいくらかでも男の世界に引き戻してくれる芸術というか文化の表現手段は今やヤクザ映画しか無いのかも知れない。 モチロン書物文化としての「武士道」や侠気(男気)の世界はいくらでもある。しかし今時、そのような文字文化、それも読書に親しみ深く理解しようとする人がどれだけいるのであろう。 大衆はやはり今はテレビである。ネットである。 せいぜい新聞か週刊誌である。 それらに武士道を中心とした日本文化の中の男の世界をどれだけ提供でき、読んでもらうことができるであろうかと考えた時にキタノ映画の存在意義は決して小さくはないように思える。 典型的な娯楽作品として世の中に差し出されたキタノ映画を多くの日本人心の奥底に眠る武士道遺伝子が、敏感に嗅ぎ取って興業的に是としたのである。 愛と暴力の関係には実のところ深いものがある。 人は愛の為に暴力をふるい、愛の行為として暴力という手段を使う。 ただ他者を意のままにする為の暴力など少数派なのではないだろうか。 たとえば学校やスポーツ訓練の現場での体罰とひとくくりにして暴力としてしまうのはかなり乱暴であるとも思える。 それこそしつけが、ビヨンド(・・・過ぎる)することもあるかも知れないし、怒りや口惜しさや純粋な愛の発露かも知れないのだ。 愛と暴力の共通点。 それは「関わる」ということだ。 非暴力、不体罰、全くもって大結構大賛成である。 ・・・しかし待てよ・・・。 そんなに単純に割り切れる程、暴力の意味は浅いのであろうか。 人類の歴史が殆んど戦争の歴史と同視しても良いほどに深く、広く、長く暴力色に彩色されているようにこの歴史の謎を紐解かずして、人間の暴力の起源を解読せずして暴力反対などの単細胞的シュプレヒコールの方に何かしら危険なものを感じる。 しかしながら北野映画のタイトルにあるように人間はビヨンド(〜し過ぎる)する傾向にあるのは事実で、中庸の徳を知り、守れる人々、所謂、真の意味の賢人など実はごく少数派、希少派なのである。 ビヨーンとビヨンドしないこと。過ぎたるものは及ばざるが如し。 何回も述べて来たことだが、やはり金言なのである。 ありがとうございました M田朋久 |