コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 人間の絆2013. 5.25

村上春樹の新刊作品「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」をとりあえず読んだ。
・・・というより読ませていただいた。

記録的ベストセラーで、不思議に長たらしいタイトルの小説。
本屋の店頭にこれ見よがしに積み上げてあると逆に引いてしまう。
それを、有難いことに或る方に進呈されたのだ。

読んでみると、恥ずかしながら思わず号泣してしまった。
読み終えた後もしばらく涙が止まらず、色々な思いが胸底から噴水のように湧き上がり数日間、身も心もボンヤリとしていた。

流石、天下の村上春樹様である。
文章が上手いというより、その素朴で正直な語り口、独特の感性にマイってしまった。
内容は、ヒット作で映画化されたあの「ノルウェーの森」によく似た設定となっている。
出版社も作品の出来と村上ブランドに相当自信があったのであろう。
薄いビニール膜で装丁を覆い、立ち読み出来ない工夫がしてあったが、予想を越える凄い売れ行き。確かに読んでみると素晴らしい小説であった。

一言もその言葉は出てこないが、愛と孤独と死と友情と・・・即ち人生の全てが贅沢に調理され盛り付けられた感動の物語であった。

小説の技法として「愛」とか「友情」とか「孤独」とかを直接的に書き挙げることはできない。
何故なら、人生物語のそれらを、文章として表現するのが小説というものの本態であるからだ。
それは美味しい料理をただの料理ですと言って差し出すようなもので、それらの言葉を書いた途端、もう小説ではない・・・とも思える。
それこそ身も蓋もない。
いずれにしても感動的で凝った作品で、売れるのは当たり前であろう。
それで最初は理由も良く理解出来なかった感動を少し分析的に書きつづってみたい。

作品が発表され、テレビでその記録的な売れ行きが話題になった時に、村上氏のメッセージ、作品の主題というものが「絆」とのことであった。
3.11以来、日本中でこの言葉が流布し、今でも巷間でたびたび、見させられ、聞かされる。それは執筆者の意図か自然の流れかマスコミの誘導かは不明であるが、確かに時宜を得たモノであった。

絆と聞かされ最初は「何だ、平凡やな」なんて思ったものだが、いつものようにハードカバーの厚紙をハサミで切り落とし、光沢のあるソフトカバーで本を覆い、文庫本のようにペランペランの文芸雑誌風に自分で装丁し直し、常に携行し愛着しながら読み続けてみると、冒頭は「何だ、こんなことで死にたくなるのか」というくらい、軽々とした20代の大学生のハナシであったけれども、とりあえず中間を読み、最後を読みして物語の全貌があきらかになってくる前に、読んでいるだけで何故か落涙して仕方がない。

「ノルウェーの森」のワタナベ君とほとんど同じキャラの主人公、多崎つくる君と、同じくミドリさんと似たキャラの沙羅さんが心の救済者として登場し、つくる君の巡礼でもって自らの魂を癒して行くという物語である・・・という風に読み取っている。

心を開いて語り合う友達のいない筆者としては、4人の友人に拒絶され、自殺したいと思うくらい傷ついたところが、全く共感できなかったのであるけれど、考えてみると自分自身の60年の人生において、これ程無慈悲で容赦の無い断固とした「拒絶」に遭ったことは無く、それによる死にたいほどの苦しみを味わったことがないので、あらためて、例えば親とか兄弟とか友人、知人のさまざまなレベルの愛する人々、愛してくれる人々からそのような拒絶を経験させられたならば、確かに「死んでしまうかも知れない」と今ではハッキリと思える。

それほど温かく深い愛の中でぬくぬくと育まれたこと、また今も同じように熱い絆の中で生かされていることに気づかされ「人間同士の絆」というものの重みと有難さにあらためて感動させられたワケである。

勿論、作中に「絆」という言葉は出て来ない。それは、たとえば
『魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ、傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛の叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。』などと表現される。凄い感覚感性、表現力である。

「絆」は「傷な」なのかも知れない。
絆は心の痛みや喪失そのものかも知れない。
筆者のような浅薄な人間でも、僅な想像力を全力で駆使すれば少しは理解できるような気もする。

人は深い愛の中で生きている。温かい絆の中で生かされている。
そのことを本当に気づかせてくれるのは、優しい思いやりや提供される厚い保護や便利さなどではなく、別離や死や、その他の多くの悲しみ、痛み、喪失なのだ。それらによって人間は今そこにある深い絆にはじめて覚醒させられるのだ。

村上氏もそのことを人々に伝えたかったのかも知れない。
そうして人々もまた3.11の大地震、大津波による絶対的で残酷な喪失体験によって絞りだされた「絆」という小さな灯火のような言葉を頼りに、勇気を持って生きようとしてもがいているのだ。
・・・主人公の多崎つくるの・・・のように。

村上春樹の世界は良く分からないけれど、主人公の持つ自分や周囲の人々に対する痛みを恐れない正直さ、率直さ、それらに直面する勇気、孤独に雄々しく耐える気概には深い感銘を受ける。
都会の生活、青春時代、美しい自然、風景、静寂と音楽、そして人工物、即ち機械(クルマ、時計、携帯、パソコン)現代の人間の周囲を取り囲むありとあらゆる大道具小道具を、過不足なく散りばめた、実に豊穣な文学世界を披露してくれた。
そして人間の絆というものについての明確で決然としたメッセージを文学を通じて世界に提示してくれた。
「人間の絆」というものに意識をフォーカスさせた時に、筆者の心にも、何かしら善なるものがもたらされたのか、読後以来、人間を含むこの世界のすべてがとても愛おしくまぶしく輝いて目に映ずる。
ノーベル賞の呼び声があるそうであるが、確かにそれだけの価値があるかも知れない・・・。

ありがとうございました
M田朋久


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