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■ 死にたい | 2013. 5. 1 |
我が国における年間自殺者の数は3万人超と、近々まで続いている長い景気低迷を背景に少しずつ増加しているそうである。 統計的にはそうであっても、人口当たりの自殺者の割合は世界中極端な差は無いように見える。 「自殺予防」という言葉があって医療、特に精神科の医療従事者、医師、看護師、ケース・ワーカー、臨床心理士などに対してどのような対応をするべきかマニュアルのような冊子が配られているが、本当に効果があるのであろうか。 愚かな判断や幼稚な考え、或る種の衝動性の高まりによって発作的に死を選択し実行する方がおられて、これらの人々の「早期発見」は結構難しい。 牧伸二という、昔から有名なウクレレ漫談家が丸子橋(東京都と神奈川県の県境に架かる)から飛び降りて自殺を完遂させたとのことだ。 78才。 周辺の人々の話では理由、その気配は微塵も感じられなかったそうで、これは他の有名芸能人の自殺者と同様である。 生きている以上、人間には種々の苦しみや悩みがあって、その軽重・深刻さには他者からの評価を寄せつけない、大変に重苦しく切迫感のあるものから「なぁ〜んだ、そんなことで」みたいに傍から見ても極めて軽微なものもあって、一言で自殺と言ってもその中身は、もっと言うなら心の中身など極論するなら全くのブラックボックスで誰にも分からない。 そこで全く軽微というか、ワケの分からん屁理屈のようなことを言って「死にたい」と簡単に口にする人々に対して、少々の説教・苦言を試みたい。 「アナタはゴキブリ以下」である。 ゴキブリさん達は日夜黙々と文句も言わず殺虫剤やゴキブリホイホイや季節の寒暖、環境の変化に適応し、自らの本分を全うし、子孫を繁栄させ、人間様などよりもはるかに長い生命の歴史の風雪に耐えて立派に生き生きしている。 ましてや「死にたい」などというワガママなことを多分一切口にしない。 「ゴキブリに学べ」という風に、日頃より闘争と同居とを繰り返している我が家の目に映る最も身近な同居者、ゴキちゃん達を眺めるにつけ、或る種の勇気を得させられる。 この不気味に黒光りして、その長い触手を妖しくはためかせ、時に飛び、台所やゴミ入れをガサゴソ動きまわれる太古の生物、ゴキブリ。 何とも逞しい。 それにくらべ我が身を含め、人間の神経衰弱ぶり、生命体としての弱々しさは一体どこから来ているのであろう・・・と考えた時に、まずその生命力の弱さを突き詰めると、その複雑さ、単純さの度合いによると思われる。 人間の考え過ぎはその肉体の構造上仕方の無いことかも知れないが「アタマでっかち」即ち思考優位的価値観に基づいた生き方は、喰って寝て、ただ「生きる」ことを全存在的に表現しているゴキブリと比べた時に人間の虚弱さにはあらためて驚かされる。 筆者とて人間であるから「死にたい」という欲求は分かる。 生きることが面倒臭く、結構シンドイものだと思われない日はない・・・。 けれどもすべての生命がそうであるように、天(神)や人類の祖先(世界)、そして子孫(未来)に対する義務を思う時、「死にたい」というのはひとつのワガママであり、ぜいたくであるかのように思える。 死は誰の身にも訪れる絶対普遍のもので、厳粛なものである。 医療界でも無理な延命治療をやめて、平穏で静かで自然な死を尊びましょうという流れもあり、これも倫理的に悪いことではない・・・と思える。 しかし待てよ。 「死にたがる」のも「生きたがる」のも、考えてみれば人間のエゴそのものだ。 それぞれの苦しみから逃れる為に死を選択するというアイデアもそれを実行するのも、全体として考えるならひとつの寿命なのだし、現代医療によって延命されているのも寿命・天命なのである・・・と割り切って、筆者としてはいずれの立場も頭から肯定も否定もできない。 「生きる」ってそんなに難しいんだネ。 @「死にたい」と思っている人 A「生きたい」と思っている人 Bそのどちらも考えていない人 の3種に人間を分けてみると、Bの人が最も平和で悟った人に見えるし、ゴキブリも多分AとBであり、@はやはりいかにも人間的であると思える。 ありがとうございました M田朋久 |