コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 自己満足2013. 4.27

仕事と遊び、プロとアマを分ける最大のポイントは自己満足的な慢心がその業務の心根に存するかどうかではないかと思える。

仕事はクライエント、コンシューマーなど色々表現があるけれど、要するにお客さんが満足してナンボなのである。
決して提供しているサービスとかパフォーマンス業務の自己満足であってはイケナイのである。
自己満足はあくまで自己のモノ、一部の芸術作品とか趣味・遊びの領域ではそれも多少許されるであろうが、プロの世界、職業の世界ではすべからくくせ者の満足こそ求められるべきであろう。

お医者さんの世界ではいくらか自己満足的、オタク的に仕事をなさる方が時々おられる。
どちらかというと医学校というのは研究者・学者を養成する傾向があり、世の為人の為とか患者さん、健康・幸福の為になどというような、割に普遍的万国共通的な動機を持って仕事をされている方がそれほど多くないように思える。

筆者を含めてお医者というのはその学習のあり方、資格の取り方が学業成績の秀でた者から選抜され、医学教育の中でもそのような倫理観みたいなものを醸成しにくく、また医者になってからも自分の得意な分野、好きなこと、興味のあることを専門科にしやすい。
つまり他者満足、即ち世の中に必要とされるものを提供するという志が低いように思える。

ビジネス用語的に表現すると、医療・医者の仕事というのは殆んどその初期の段階では「プロダクトアウト」的であって「マーケットイン」的ではない。
つまりこれを造っているから、これができるから受け取れという上から目線風の医療サービスの提供の仕方に終始して、マーケット(市場環境)の要求に応えるというより、やや極論するなら仕事がやや趣味的である印象を受ける。
筆者は医者の息子として生まれ、父親の仕事ぶりを見て育ったが、子供から見たところ、どちらかというと外科医であったけれど、それはへき地においては仕方なしに盲腸(虫垂炎)の手術とか小児科を診ていたようであったようであったが「町」に出てくるとこれらを一切やめ、所謂完全な総合医、つまり「町医者」になっていて、言うならば24時間、昼夜を分かたず患者さんの要請に応じていたようであった。

「夜中の電話」が鳴ると、母親は父の身を案じ「心臓が痛くなった」と後に口にしていた。
筆者は医者になった時も、研修医時代の厳しいトレーニングと開業してからの苦労の殆んどこの救急応需というもので、これは肚を決めて医者は24時間医者で、決して逃れることはできないものである・・・と心に決めて早朝深夜を問わずあらゆる時間帯に患者さんの要請に応じるように心身の準備はしているつもりである。

今は残念ながら救急医療体制が整い、救急病院も一般医療機関も増えてそのような深夜の救急患者さんなど稀になったが、心意気だけは保持している。
深夜だから重い病気が多いとは限らないが、患者さん本人の切迫感、苦悶は強い傾向にある。

これを助けずして医者と呼べるであろうか。
プロであろうか。

法律的にも「例外」を除き患者さんの要請にはすべて応えねばならないことになっているそうだ。
しかし「例外事項」がいっぱい医者の方に診ないで良い言い訳を数多く上げていて、この法律も実のところ骨抜きなものである。

実際の患者の病院タライ回しなど日常茶飯事になっている。
話しはメチャクチャそれたが、自分に常に言い聞かせているのは自己満足の戒めであり、プロダクトアウトへの戒めである。
その最大の動機はプロの医者として立派な仕事を全うしたいという、言わば美学である。
・・・と考えると、これも自己満足である。

話しは矛盾するが、人生というものは大きく考えるとすべて自己満足なのであるし、それで良いと思える。
しかし社会と対峙した時には他者満足を目指す。
これがプロ根性というものであろう。

ありがとうございました
M田朋久


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