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■ 愛と幸福 | 2013. 3.21 |
幸福になるのは実に簡単だそうである。 「愛する・・・こと」。 ただそれだけ。 不幸になる方法。 愛さないこと、恐れること。 この世の中の全部、森羅万象、誰か或いは何かを問わずありとあらゆるもの・事柄に対して恐れを持たず勇敢に愛すること、ゆるすこと、受け入れることを心の中で選択し行動すれば人間は幸福になる。 イヤ、素晴らしい幸福感に浸れる筈である。 ただし、愛について間違った思い込み、観念、信念を持っていると逆に酷い苦しみを味わうことになる。 愛を学ぶために人間が生まれて来たと仮定するなら、その苦しみもまた学びの為の教材であるのかも知れない。 本物の愛は決して対象や相手を束縛しない、操作しない。 どちらかというとそれを自由にさせる、解き放つ。 偽物の愛は所有し、束縛し、操作し、嫉妬する。 それは愛でなく欲望である。 ただのネガティブ感情。 それは性欲、所有欲の発現であり、孤独感情の表現なのである。 すべての感情は愛から出現するので、感情そのものは決して悪いモノではない。 むしろ善なるものであるが、欲望と混じり合って複雑な欲求衝動の波を心に生じさせる。 感情に限って言えば、愛から発生する感情で否定的なものの第一は「寂しさ」である。 「寂しさ」は人を求める感情、人を結び合わせる感情でもあるので男女の間にそれが生じた時にウマく噛み合えば恋とか結婚とかの元になる感情なので良きものである。 ・・・けれども寂しさから派生する不安や怒り、悲しみはそれぞれ未来、現在、過去の順に人間の心を苦しめる結果となる。 即ち不安とは未来に対する否定的感情、本質的には愛の喪失への不安。 現在においては自らの存在がないがしろにされていること、即ち愛されていないことから生じる「怒り」そして過去に愛した人、愛した物・事柄の喪失によって生じる「悲しみ」・・・という風に愛を中心に据えて感情というものを分解分析することができる。 一方愛の肯定的な感情としては「喜び」であるけれど、言葉の表現としてはうれしい・たのしい・しあわせとして感覚されるが、いずれも現在、今ここのものである。 つまり「愛の喜び」というものは、今ここでしか味わえないもので、幸福を未来に求めたり過去に求めたりするのは基本的にマチガッテいる。「苦しみ」の元である。 「しあわせの青い鳥」は今ここ、現在の自分の家(心)の庭先にいるのである。 メーテルリンクさんもこのことを寓話的に伝えたかったのではないか。 これらの肯定的感情をいつも感じるようにしていると良いことがいっぱい起きるそうである。 ついでにやや理性的につくり出された感情「ありがたい」はこの肯定的感情を増幅するそうで、それこそありがたいことである。 「ありがとう」という言葉も多く使っていると、うれしい・たのしい・しあわせが増幅され、拡散・伝染し最終的にその言葉や気分を発している人物を幸福にするそうである。 ナルホド。 それがネガティブにしろ、ポジティブにしろ、深い感情を味わうと涙が出てくるが、人間は涙と共に成長するそうで、色々な感情をキッチリと味わうことは決して悪いことではない。 感情抑圧の方がはるかにカラダに悪い、ココロに悪い・・・最終的に人生に悪いと思える。 愛と意志のドラマ・・・これが人生であるそうな。 個人的には、できればいつも「愛を与える人」「愛の人」たとえばマザー・テレサのような人物になりたいと常々考えているのではあるけれど・・・。 ただし愛という言葉には多種多様な感覚感情、概念、理屈があって人それぞれだ。恋愛以外での実感として愛の感覚をハッキリと得ることができたのは、或る自己啓発セミナーが最初で、もしかしてその研修に出会っていなければマザーテレサについても何の憧れも尊敬も湧かなかったかもしれない。そのセミナーは25年前に受けたもので今でもありありとその喜びを思い出すことができる。 それは日本創造教育研究所という会社で今も存在しているが、現在は愛の喜びを教えてくれるというよりは中小企業の社員研修に特化しているようで、なんとなくツマラナクなった。 本当はあらゆる企業研修というものは愛を中心に据えてするべきとおもえるが、時々愛無しで成功しているように見える会社があったりして、紛らわしいけれど、これは神様のヒッカケ問題で、人間どもを試すために存在するマヤカシなのである。多分。 愛に気づく、愛を知る、愛を実感する、愛について考える等々、人生にとって最も大事なテーマをクリアしなければ幸福 も成功もその喜びも実りもゲットできないような気がする。何となく功利的な表現で申し訳ないが、敢えて使ってみた。 ありがとうございました M田朋久 |