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■ 夜汽車 | 2013. 2.27 |
今時は「夜汽車」だとか「寝台車」とかは古臭いというか、今でも実在するのかどうかも不明にして不知であるが、この言葉の響きはこの時期、2月の下旬、春の卒業、就職など新しい「旅立ち」を想起させ、未来への不安と期待を象徴するkeywordとしての、存在価値を感じさせる言葉というかノスタルジックな「乗り物」である。 夜、鉄道に乗って車窓の外にうっすらとほの見える畑や山影、家々に灯る「街の灯」とそれに重なり合う窓ガラスに映り込んだ自分の顔の奥の夜景色をつらつらと眺めていると、いつものように少年時代、青春時代、最近の色々な出来事に応じて惹き起こされた胸の奥底に堆積した沈殿物にますます心が重くなる。その「心」をいくらか軽くすべく瞑想なんぞを試してみたがあまりうまくいかない。何だか面倒臭いので精神安定剤をガリガリと噛みながらコーラを流し込んで瞑目していると、だんだんスッキリして来た。 全くまともな文章とは言えないモノを書きつづりながら、この「重い心」の源流を探っていくと色々な感情に行き当たる。 それは孤独と虚無。 そして甘い悲しみ。 苦々しい後悔。 そうして何とはない未来への不安。 これらで混成された重苦しい胸の中のカタマリが何かしら我が肉体に悪さをしないように、夜の鉄路を降りると近頃はバイクにまたがるようにしている。 気温が0℃以下でも寒さは感じない。 それは「心地良い冷たさ」だ。 まるで生命がけのように深夜の高速を、バイクを抱きしめるように深く前傾して疾駆していると、何もかも忘れさせてくれる。 軽い憂鬱と共に相変わらず思考が頭の中を巡りながらも、身に迫る危険がそれらの鬱積物をとりあえずは吹き飛ばしてくれる。 有難いことだ。 明るい日、即ち明日への出発としての夜汽車なのであろうけれど、それはやはり悲しげで不安だ。 夜の間に人間の集団を乗せてソロソロと突き進む夜汽車は、まるで平凡で退屈な人生そのもののようだ。 決められている暗夜行路、安全な旅。 到着地が決められている・・・。 それが分かっているためかどこかしら憂鬱な乗り物だ。 それが必ず明るい暁光に迎えられると明々と理解していても・・・。 少なくともオートバイよりも安全な分、自由ではない重苦しさ。 時間を支配できない窮屈さ・・・。 そうして少年時代の思い出、実家から100kmほど離れた熊本市で中学生からの寮生活。 鉄道での夜の帰省、また夜の帰寮。 正直どちらも憂鬱。 集団の中での孤独。 愛読書が「赤毛のアン」「あしながおじさん」。 これも理に適っている。 火宅の家と厳しい寮生活。 どちらも筆者の最も好む「自由」を与えてくれない。 恐らくそれらのイメージ噴出トリガーとしての夜汽車への複雑な感情なのであろう。 自由と反逆のシンボルはやはりオートバイ。 孤独の質は違っても、自由な孤独は心地良い。 いつでもというワケではないけれど・・・。 収容所行きの列車。 ガス室行きの鉄路。 鉄道には良いイメージが想い浮かばない、そして夜汽車はモノ悲しい。 先述した卒業、就職、新入学等々、新しい旅立ちのシンボルとしての「夜汽車」。それら、そして彼らへの応援歌としてのコラム・・・と思って少しマイナー調に書きつづってみた。 ありがとうございました M田朋久 |