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■ 人格と女性問題 | 2013. 2. 5 |
どのような人物が人格者と呼べるのか? これはイメージとして女性や若い男では無い。 言葉の感覚が合わない。 やはり中年・壮年以上の男性、時に老年者のものであろう。 男の下半身には人格は無いそうである。 しかし男のそれが人格者だったら、本人も周囲の女性、特に配偶者や付き合っている女性は困るであろう。 「僕の下半身は紳士です」「人格者ですから・・・」なんて誰も嬉しくない。 しかし男の場合、この下半身(性欲)のコントロールは人格や人物の評価に微妙で重大な評価基準が絡んでいるので、女性問題で世間の人格評価を一気に下げてしまう人もあり、誠にお気の毒である。 悪人の「ハニートラップ」だとか女性問題の暴露だとか、この女性に係わる事柄を引き合いに出して問題視する人物こそ非人格者の最たるものであろう。 日本では元来女性問題と人格者云々は殆ど無関係なのである。 けれども女性に対する態度というものにその男性の「人格」「人柄」が表出しやすいというのは確かで、女性を大切にしない、利用するだけで、足蹴にするなどは人格評価を下げるだけでなく、その人物の運気を著しく損なってしまうようだ。 概ね女性を大切にし、時に応じて下半身だけは人格者になっておかない態度が人格者のものではないだろうか。 中国の古典だったか、日本の著名人の言葉だったか不明であるが、 『眼中妓あり、腹中妓なし』 というのがある。 立派な人物は眼では女性を見ていかにも楽しんでいるが内心、心の底には女性はいない・・・と言う意味で、心底では女性に心を動かされず、淡々というか枯淡というか、深く執着しているワケではないということらしい。 日本人の多くがその人格を認める山本五十六の芸妓との恋物は有名だし、昔の大物政治家・三木武吉のお妾さんの多数さ(確か6人)を国議で責められたときの態度が立派であったために、逆に「男をあげた」結果になった話もまた有名である。 昭和の今太閤、田中角栄の人格評価は不知であるが、少なくとも非人格者との評判は聞かない。 この方の女性問題も結構華やかであったらしい。 いずれにしても女性問題の有無よりその対処の仕方、扱い方に人物評価の大切な基準、即ちエゴイストか自己犠牲的か「泥をかぶれるか」場合によっては「悪者」になって、女性やステイクホルダーを守れるか。愛情とか思いやりがあふれているかどうかが分かれ目であるようで、女性問題そのものが人格評価を棄損することは無さそうである。 言い換えれば男の下半身は人格者でなくても良く、上半身即ち、心根とか人柄とか思考の内容、考え方、教養の中にそれらの処し方への美意識とか品格がありさえすれば良いということになる。 人格者でない人については、男女ともそれ(異性問題)をあげつらってスキャンダルを創り出したり捏造したりする輩が最も非人格者であると言える。 世間の割と程度の低いスキャンダル話で女性問題とその人物の人格を結びつけようとするニュースがあるが、女優と有名モデルに対して二股をかけた俳優さんがいてテレビの前で号泣していたそうだが、このような人物には人格評価の対象にもならない、ただの「情けない男」に成り下がっただけであった。二股でも三股でも四股でもかけて平然としておけばいいと思えるが、全部「しらばくれる」というのも場合によっては相手の女性を守ることになりはしないか?・・・なんて考えている。不謹慎であろうか? 結婚を餌にするというのは男として卑怯というか情けないというか・・・自らの不甲斐なさを嘆いて涙していたのであれば何となく納得できるが、アレはただのパフォーマンスであったろう。見苦しいパフォーマンスではあったが・・・。 最終的には多くの日本人は優しく温かな寛容な眼差しで見てくれているようで、人の噂も何とやら、今は何事も無くお仕事をなさっているようだ。 米国には今でも最も人気のある大統領の一人である、J.Fケネディー氏なども、その道では誠に華々しいご経歴を持ちであるが「勲章」とまではいかないが「前科」というほどではない。跡継ぎにクリントンという大統領もいたが、このスキャンダル騒動は、相手の元秘書モニカルインスキーを金持ちにし、嫁のヒラリーのお株をあげさせた。ヤレヤレ皆さんお疲れ様です。 ありがとうございました M田朋久 |