コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 求感性2012.12.28

アフリカのマバーン族という部族には難聴の人がいないそうである。
年をとっても誰も「耳が遠く」ならず、殆んど正常な聴力を生涯維持するとのことだ。
何故かというに、物凄く静かな環境で、言葉も少なく、深い静寂の中で毎日暮らしているからとのことらしい。
・・・とすれば、騒音・テレビ・ラジオ・会話・人の言葉・音楽などさまざまな人工的に発せられる「音」は耳に悪いということになる。
これは帰納法的な推論なので絶対ではないが、多分に高確率に起こり得ることは、ひとつの「仮説」として日常生活や実人生に生かせるものであると考えている。
このような理屈が難聴の人は騒音にさらされているモノと推論できるが、実際に配偶者(夫や妻)がガミガミと口ウルサイと片方は難聴になるが、我がクリニックではこの事実の確率はほぼ100%である。

つまり難聴の人の配偶者は口ウルサイ、もしくは口が悪いという結論が仮説として導かれる。

芳村思風の感性論哲学によれば、生物の進化は求感性(ぐかんせい)によって生じるとのこと。
例えばキリンの首が長いのは高い木の葉を食べる為に自然に伸びた・・・とか、コウモリの暗闇での超音波発信による「飛行」とか自然界には「求める」ことによって生じた働き・機能の進化がある一方で、減弱・衰退と言う機能の退化も自然界に起こり得る。
或る意味、この世界はそれらの求感性、非求感性の結果生じた現象だらけである。

よくこのように考えた時に本を読む人には白内障が起こりにくい、テレビを観すぎることで視力の低下とか機能の減衰と進化が容易に起こり得ることを示している。視力の使い方が前者は能動的(求感的)後者は受動的(非求感的)ということか。
それじゃベートーベンの聴力障害は何故なのか?これは音楽というものが、聴力喪失によってもその創造について決定的ではない・・ということを人類に知らしめたという意味で彼の人をさらに偉大な人間にしているようだ。
人間は個人の一生の間でも進化したり、退化したりするもののようだ。

筆者は40才丁度より老眼になってしまったが、これはひとつには「眼鏡」をかけたかったからで、メガネの人に憧れがあったというものが少しあるように思える。
一方でこの老眼は20年間少しも悪化していない。
何故か?
老眼鏡の度数を簡単にアップさせないで、40才の度数、つまり1度で頑張っているからで、分厚くなって眼球が大きく見えてしまう、所謂誰が見ても「老眼鏡」に見られたくないという「求感性」に根ざしていると思える。

ちなみにお願いしている弁護士さんは50才と65才であるのに、それぞれ裸眼で書類を読まれる。
これは相手方の60才程の弁護士も裸眼で書類を読み、取り扱われているので弁護士は老眼にならない・・・。
ただし有能な弁護士に限る・・・。
何故かというに「書類を読むのが好き」という求感性が働いているのではないだろうか。
何故か有能でない弁護士の場合は老眼鏡をかけて文字を読まれるようで、これは帰納的推論とは言えないくらいデータが少ないので明言はできない。

ネガトーク。
即ち否定的なこと、ネガティブな言葉、クサし言葉、ケナし言葉を周囲に撒き散らし、まるで悪臭や汚物のように言葉の毒素で充満させ、人の生命エネルギーを奪い取り、枯渇させ、時に健康を害させ、果ては生命そのものを亡くさせるようなマイナスエネルギーをネガトークとして日常的に発せられる方がおられるので用心をしたい。

これらの言動を止めるのは基本的に至難であるので、離れておくか話を聞かないか聞いてもすぐに忘れる工夫を生命がけで「する」必要があるが、多くの油断をしていてこのネガトークを自らがしたり、真に受けたり、心の中にその言葉を繰り返したりして人生を破壊させてしまうこともあるようだ。
用心、用心また用心。
心を清らかに美しく保ち、ネガトークで汚さないようにテレビやラジオ、人間関係における有毒な言葉を発する人々とはあまり接触しないようにしたい。
もしかして家族の中にそのような人物がいたら、トットと家を出て自立生活・独立をするか、こっそり実際の耳栓と心の中の耳栓をガッチリとしてやり過ごさなければ思いもかけない健康被害、人生被害を被ってしまうので強い注意を喚起しておきたい。

少なくとも人間の「求感性」と言う考え方からすると、心に描く強烈なイメージと共に影響力の強い人、言葉の力の強い人の「言葉」には細心の注意を払うべきであろうと思える。
善言言行、善いイメージで日常を満たしていけば、人生も自然に善導されて幸福で快適なものになるに違いない。

ありがとうございました
M田朋久


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