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■ 人を責めることについて | 2012. 9.28 |
中国政府の報道官、洪磊副局長のマスコミ向けのスピーチが何回も流されていたが、内容は相も変わらず日本政府の批判で、尖閣問題での両国対立の原因を「日本の責任」と言い放ってはばからない。 日本人の感性では「人のせいにしてはイケナイ」という良識があって、他人のせいにする人物は人格的にも社会的にも未熟な人とみなされる。立派な親や先生も子供の教育で「人のせいにしてはイケナイ」と教える。 少なくとも筆者はそのように教えられて育ち、その理由についても大人になってからの読書や短い人生経験や一般常識として持っている。 「人のせいにする」即ち、責任転嫁は自己責任の放棄であると同時に、心理的にも自主独立の放擲であり、自分の無力さの証明ともなる。さらに「人のせい」にして「他人を責める」ことは自己破壊的な行為である。 或る国家の中枢にある人が、堂々と他国を批難するというのが今の国際社会で常識ならば、これは少々「お下品」であると同時に結構危険である・・・という風に多くの日本人の心の底に明らかではなく、潜在的に秘めている感性なのではないだろうか。 「何だか怖いなあ」みたいな・・・。 「他者を責める」ことが、今の社会における個人や組織や国家の「自己主張」「自己表現」として常態化しているとすれば人類の精神レベルの低下と言えるかも知れない。そのような言葉が「美しくない」ことであることは、所謂、人格者にそのような言動が見られないことでも窺い知ることができる。 「人を責める」人というのは、自分を正当化している。自分を上に置いている。上から目線である。被害者意識を持っている。 「アナタのせいで私は不幸ヨ」という立場である。 これは、精神的自立を果たしていないという点において未熟そのもので、典型的には、子供が良く「人のせい」特に「○○ちゃんのせいで・・・」とか「先生がこんな言ったから・・・」とか「親のせいで自分は不幸だ」とかの言動をする人は普通「子供」であるとみなされる。 子供であるということは未成熟であるということだ。 一般の良識的な日本人は、容易に「他人のせい」にはしないし、物事の不幸の結末を自らの「不徳の致すところ」と表現なさる。 そのような考え方や行動を選択するのが日本人の武士道的な美学であるとのだ。 「忠臣蔵」という日本人の好きな物語がある。これは日本の太平洋戦争における真珠湾攻撃を正当化するものではないが「忠臣蔵」的に考えてみると山本五十六を大石内蔵助、連合艦隊を赤穂浪士にたとえ、米国大統領を吉良上野介とたとえることもできる。 日本のヤクザ映画にもよく出てくるワンパターンで、嫌がらせや苛め、屈辱を味わされた主人公、高倉健や池辺良が映画のラストシーンで相手方(悪役方)に刀を持って斬りこみに行くというものであるが・・・。 このような物語や日本人の感性を中国人や韓国人は知っているのであろうか。 老子の言葉に「敵を侮るは災禍の最大である。敵を侮ることで自分の宝を失うであろう」とある。 敵を侮ると簡単に攻撃したり訴えたりするものだ。 そのような人々は反撃反訴の鋭さ、怖さを忘れている。 「人を責める」ことを背景に「人を侮る」ことが存するのであれば、結構危険なことであることをお互いによく知っておくべきであろう。 国際関係にしろ人間関係にしろ、基礎的感情は「愛と恐れ」である。 「愛は相和し、恐れは相反目す」 それにしても中韓両国にいったいどんな意図があるのだろう。 ありがとうございました M田朋久 |