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■ 音楽 | 2012. 9.23 |
同名の三島由紀夫の小説がある。 内容には個人的に不興で未読了。 何はともあれ、音楽というものについて少し書きつづってみたい。 音楽の心の癒しの効果は個人的感覚では、かなり明瞭に在って、ここ1年くらい入眠時には必ず音楽を聴いている。 そのミュージシャンは、全くの定番で「来生たかお」。 若い時にはそれなりに流行歌、ジャズ、クラシック、ロック、映画音楽、イージーリスニング等々、ジャンルもアーティストもさまざまで、それなりに楽しめたのだが・・・。 何故かここ数年は「来生たかお」しか聴けなくなってしまった。 多分、脳の老化、好奇心の退化と思えるが、何せ仕事ではなく個人の趣味嗜好の問題なので自然のなりゆきに任せている。 何故「来生たかお」なのかという問題については少し分析してみると、まずはノスタルジー。 人生で最も精神的にホッとして満ち足りていた時期、即ち国家試験に合格して新米医者として忙しく過ごしていた時にたまたまアルバイト先の当直室で観たテレビで、この歌手のピアノ弾き語り「goodbye day」を聴いて、又その年のヒット曲「夢の途中(セーラー服と機関銃)」を医局の歓迎会でのカラオケ歌唱と要するに「あの日に帰りたい」心境yみたいな実に他愛もない理由であるような気がする。 逆に見ると、ジャズとかクラシックとかにはあまり良い思い出は無いということになるが、考えてみると確かにそうだ。非行少年時代とか学業不振の時に同期するようだ。 ちなみに何故か演歌を聴いていると大概気分が悪くなる。これも多分自分なりの感性感覚の問題と何かしらの「悪い思い出」に結びついているのであろう。 経営者やセミナーなんかでも演歌は良くないという説があって、その理由はその歌詞にあるらしい。 確かに別れとか涙とか男女の情実のマイナス面が少なくとも昔の演歌には多いような気がする。 その点「来生たかお」は良い。 甘く、軽く、気だるいスローなテンポと、その割にポジティブな歌詞は快適な入眠にピッタリだ。 寝入りも良いし、目覚めも良い。 ギルバート・オサリバンというイギリスかアイルランドとかのシンガーソングライターがいて、その人の影響を受けているそうで、来生たかおの世界は一種独特だ。 親しい友人に言わせると「みんな同じ曲」に聞こえるとのことだが、筆者に言わせると演歌もジャズもクラシックもみんな同じに聞こえる(・・・やっぱり脳の退化だ・・・)。 不思議なことにチケットをもらったり、たかおさんの奥さんの縁家が当地の郡部らしいこともあったりし、須恵村文化ホールという田舎の街に51歳の時に来られて計3回もコンサートに行った。 あまりトークは無く、殆んど休憩なしで淡々と歌われる。 当時も今も、歌が上手か下手か分からないけれど、とにかく耳心地が良いので、ひたすら聴いている次第だ。 「ひたすらに」という最新のアルバムも出て、聴いてみたがこれもナカナカメロディアスで良い。しかし残念ながら歌詞がネガティブなのでこれだけは入眠時には避けている。専らアルバム10本のBOXとコンサートビデオのBOXとを順繰りに聴いている。 我ながら不思議な現象だ。 モチロン、カラオケも来生たかお一辺倒。 それ以外は歌えても滅多に歌わない。 人間は老化すると趣味嗜好も固まってくるものらしい。 この傾向が全ての領域に広がっていくのであろうか。 音楽以外の絵画、映画、写真、風景、食事、読書傾向、ライフスタイル・・・、少しだけ危機感もあったりしている。 しかし音楽はいいなあ。 これも人間の創り出した快楽であるが、それを神の啓示として捉えると、それぞれの脳の中に創り出されるこの快感はいったい何を意味しているのだろう? 少なくとも筆者の場合純粋な音楽の楽しみというより、過去の楽しいイメージを想起させるトリガーとしての価値が高いような気がする。 父親は音楽など聴くなと言っていた。 母親は極端な音痴でこれは我が娘に遺伝している。 少年時代、即ち男子中学〜高校の寮生活では女性への飢えと共に音楽への飢えが少しあって、当時の夢は「自動車を運転しながら好きな音楽を聴く」・・というものだが、今の少年達にはあまりにそれらが安易な入手が可能で「夢」にするには日常的すぎるようだ。それが幸福か不幸かは不明であるが・・・。そのような事柄が多いというのはひょっとして不幸なことかも知れない。何事についても「有難く」感じないという意味で・・・。 ありがとうございました M田朋久 |