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■ 素真呆 | 2012. 9.12 |
正式には素真阿呆と呼ぶ。 アップルとサムスンがスマートフォンの特許問題で、法廷にて争っているらしい。 もともと中国・韓国は模倣国家、模倣的経済活動を行っている。 かつての日本もそうであった。 英国の新興企業で、何でもかんでも成功企業の真似をして「成功」している会社があるそうだ。 悪いアイデアではない。 筆者の友人もレストランを何店舗か経営して、一時期成功させた男がいるが、熊本と福岡の繁盛店にメジャーを持って入り、カウンターや椅子の高さまで測り、店の間取りやレジの位置、壁の絵やトイレの貼物まで真似をして成功させたが、他人の知恵を借りて成功させるのは人類の知恵である。 そもそも人類の文明文化は知恵知識の蓄積を文字にして残し、それを進化発展させることで開花させて来たのだ。 スマートフォンという新しい携帯電話端末、通信機器、アメニティー、ビジネスツール等さまざまな用途・機能・ポテンシャルを持つ「オモチャ」は世界中の若者や進取の心を持ったオジさん・オバさん達の心を捉え、一気に拡散しているようである。 筆者は先述したようにスマホは使わない。 まず、電話やメールの使用がしにくい。 まず片手で操作できないのでとても不便である。 その上、スマホを使っている人を見ると、まるでアホに見える。 小さなゲーム機器のような薄板に向かって夢中で指先を動かしている姿を見ていると、なんだかゲンナリする。 携帯電話というのは片手で軽々に扱い、用件が終わったらサッとポケットに・・・みたいな筆者のセンスなのでスマホはノーサンキューだ。 スマホ中の人はゲームに夢中になっている子供のように見える。 だいたい携帯電話を公衆の面前でいじくっているのはマナー違反に見える。 電車の中で全員が携帯を見つめている姿を見た時には、何だか車内が無音のパチンコ店になったにような不気味な錯覚を抱く。 「素朴で真正な阿呆」即ち素真呆というのが筆者のスマートフォンを取り扱うの人々への正直な印象だ。 人生の大切な時間を奪う、パソコン・ゲーム・テレビ、ついでスマホ・ケータイなどなど少しは用心・警戒を怠らないようにした方が良かろう。 便利な電子機器であり、有用なものであろうことは認める。 今やソレらなしでビジネス・仕事・遊び・交流ができないという現実も了解しつつも、もっと人や書物や対面での会話や、何よりも自分自身との心の会話、沈思黙考の大いなる邪魔者としての認識があるので、できる限り触れないようにしている。 また「人」の面前で扱うのは「カッコ悪い」という自分の感性も好きである。 人と人とういうものの間には、どんな形であれコミュニケーションという関係性が存している。 脳の構造もそのようにつくられている。 つまり受信と発信である。 その媒体である通信機器を主役にしてはならないと思える。 「目の前にいる人」こそ、人間のコミュニケーションにとって最も大切な存在である筈なのだ。 マザー・テレザも常に対面した人を一番大事したと聞いている。 「一期一会」という言葉もある。 私は素真呆になってもいい。けれども素真呆は使わない。iPADも持たない。 ありがとうございました M田朋久 追記: 「診察中にパソコンばかり見ている医者(ドキッ)」 「飲み屋でスマホをいじる男」 いずれも近々のカッコ悪さの極致であると感じるのが筆者の正直な美意識である。 偉人・聖人・立派な人・高貴な人がそのような所作・行動をするであろうか。 「いじめ問題」「領土問題」を含め、この頃の人間達に欠如しているのは、国際社会、生活全般における美意識の欠如であると思える。 ここまで言い切るのも美意識の欠如かも知れないが、敢えて提言してみた。 |