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■ いじめ問題 | 2012. 7.23 |
連日のようにテレビで議論されている。 いじめと自殺との因果関係はともかく、いじめが刑事告訴され、それが受理されたということは評価できる。 むしろ「遅すぎた」と言えるかも知れない。 学校における「いじめ問題」はかなり以前から社会問題として取り上げられて来たが、具体的な対応は不充分であった。 今回、大々的にマスコミで取り上げられ、警察も動き出したことは大いなる進歩と思える。 もともと「いじめ」はレッキとした犯罪なのである。 今回のいじめの内容も暴行、脅迫、恐喝、強要、窃盗、器物損壊といかにも曲々しい犯罪そのものの内容となっている。 或る識者によれば、自殺教唆罪もあるとのこと。 少年犯罪としても結構悪質である。 今まで野放しであったことが不思議であったくらいだ。 それにしても学校とか教育委員会の「風通し」の悪さ、警察の対応の遅さ、拙劣さ、鈍感さ、問題意識の無さがあらためて浮き彫りになった感がある。 心の医者としてみても「いじめ」による心的外傷、所謂トラウマの深刻さは社会的に軽く見られている。 「いじめによる自殺」など、深く追求すれば山のようにある筈だ。 「仕事に行けない」「不登校」「同僚とのいざこざが多い」「自殺念慮」「各種依存症」の原因、遠因としての「いじめ」はかなり深刻であるのだ。 今回、警察の「不受理」が刑事告訴の前の被害届の段階であったと言うのも、由々しき問題であると思える。 「子供だから」とか「学校内の問題だから」とかでは済まされないのだ。 少年ながら、先述した罪名列記どおり、極めて陰湿で、執拗で、悪意に満ちて悪質そのものである。 いじめ問題の研究者によると「学校には常にいじめがある」と想定しておくことが望ましいそうである。 そうして、それは発見しにくく、今の学校評価、教員評価制度の中では隠蔽されやすいらしい。 つまりいじめの有無が評価を下げるというワケだ。 これは問題を軽視する、無視する看過する、隠蔽するという学校側の姿勢を助長する制度とも思えるので、ただちにやめるべきであると思える。 今は差別用語として「村八分」という言葉を、学校では使えないそうである。 これこそが学校のいじめ無視、いじめ教育の無視の姿勢をうかがわせる。 「いじめ」を説明するのに「村八分」という日本の村社会の習慣を 引き合いに出すことに何の問題があるのか?これこそ歴史的文化的真実の隠蔽である。 余程「うざい」「きもい」「死ね」などをを禁止用語にしたがよかろう。 そもそも日本人は農耕民族で、集団で寄り添った小集団民族であるのだ。 その時に「村八分」が起こりやすい社会心理的土壌がある。 その上、日本人の気質としてヨーロッパ人などよりはるかに嫉妬深いという性質がある。 他者の突出的富裕、突出的成功をゆるさない平等主義的嫉妬心の重さに耐えられない性向と異質・異才を嫌悪する傾向があるのだ。 その上、殆んどの日本人にはこの自覚がない。 悪口、不平不満、中傷などの起こりやすい背景があって、その上延長線上に未成熟な人格、即ち子供たちの「いじめ」体質が醸成されていると考えられる。 日本人の社会全体に漂う、大人たちも含めたそのような性向の現れとして学校のいじめがあるのである。 決して学校だけ、子供だけの問題ではないのだ。 マスコミによるいじめと少年たちのいじめもよく共通している。 集団的に、一斉に特定の人物・団体・組織を責めるのだ。 情けない話である。 学校教育問題としての「いじめ」の本質として先生、つまり教師達の多忙がある。 各種研究会、研修、資格制度、身分制度、部活動、煩雑なデスクワークと多忙すぎるのだ。 本来、教師の仕事というのは「子供と向き合うこと」である筈だ。 それが筆者に言わせると「雑用」に追われ「ゆとり」が無さすぎる。 医者の仕事と言えば、カルテ書きや各種書類書きや、研究会、講習会、経営雑務に追われ、患者さんに真剣に向き合えないという状態と言える。 これまた大問題である。 「先生」というのは心理的にも時間的にも、もっとヒマな方が良い。心が亡くなる・・忙しい・・は、やはりマズイのだ・・特に先生には・・。 そのヒマが心のゆとりを生み、子供のいじめに真剣に立ち向かうという精神的エネルギーを生み出すのではないか。 子供は大人の鏡だ。 この問題は国会で審議しても良いと思える。 何せ、公教育は国家の根幹であるのだ。 国家の未来は子供たちにかかっている。 そのことを社会全体でもっと共有するべきであろう。 また学校制度もより社会に開放的であるべきで、その密室性、閉鎖性を排除し、警察もドンドン学校に入って来て良いと思える。あるいは、教師に、より絶対的な「権力」を付与するべきだ。すなわち生徒をキッチリ罰するという権力を・・・。 それに「いじめ」の傍観や無視も犯罪と認識させることだ。 大人の社会ではそうなっている。犯罪は、「見て」いて何もしないのも「共犯」になる。このことは一般人も含めて意外に知られていない事実だ。いじめを犯罪と認定するなら「学校」の構成メンバーすべて・・教師も生徒も親もPTAも教育委員会もすべて「共犯」といえる。 小さな犯罪を見逃さない、所謂ゼロトレランスが近々の新しい教育スタイルでキチンと成果を得ていると聞く。 自殺した少年の父親は医者だそうである。 自分の子供にそんなことがあれば筆者の場合、もっと騒ぐ。 狂人のように学校を責め、警察を責め、いじめた少年達を責め、社会や国家までも責め、息子の死に報いようとするだろう。 それは確かだ。 「怒り心頭」 これがこの事件についての筆者の憤慨の表現である。 ありがとうございました M田朋久 |