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■ 独身万歳 | 2012. 7. 4 |
現在、法律的には破綻夫婦とのことで実質上独身ということになっているが、養育すべき子供が3人いることで、心理的喜びと経済的負担は破綻前と比べて不変である。 ただし、夫婦関係がわずらわしい日常の会話、飲食や子供のことでのいさかいやら面倒臭い家庭内でのストレスが無く、自由でのびのびとした「独身生活」は誠に楽しい。 寂しいとか、悲しいとか、辛いとか殆んど無く、夢のように気楽で愉快な日常を送っている。 愛と束縛(不自由) 孤独と自由 これらは多分、不可分であるのだ。 本源的には、人間は愛なしでは生きていけないが、一般の人々は仕事や遊びを通じて愛に替わるものを感情や感覚の刺激として持っているので、愛玩用のペットとか、恋人とか酒やギャンブルとかで愛の不足を補っているのであろうか。 見かけ上、多くの人々はそれぞれの方法、やり方で孤独や寂寥を紛らわし、精神と肉体のバランスを取っているようである。 多くの人々の勘違いのひとつに「独身の方が異性にモテる」というものがあるが、これは「そうとは限らない」というのが真実で、むしろ既婚者・所帯持ちの方が異性に人気があったりする。 再三述べていることであるが、人間は「自由を脅かされる」ことを本能的に恐れるので、どうしても或る程度の年齢になると結婚を恐れるのである。 特に「結婚したい」と広く公言している人ほど潜在的にはそれを恐れていることが多い。 その結果、独身の男女は自らの「自由を脅かす存在」として少しく恐れられるのである。 「恐れられる」ということは、見方を変えると「愛されにくい・・・」ということになる。 そういう意味で既婚者は安心なのである。 この傾向は特に男性に強いようだ。 特に男性の場合、或る程度の年齢、たとえば40代・50代になって「独身」というのは少し不気味に見られるのである。 「どこか精神的、肉体的に欠陥があるのではないか」とか、ひょっとして同性愛者なのではないかとか、性格破綻者ではないかといった「お付き合い」をするには重大な欠点を秘めているように見えてしまうのであろう。 筆者の友人で、ホテル経営者のチョッピリ小金持ちのモテモテ男がいたが、長年連れ添った夫人と離婚した途端モテなくなったと嘆いていた。 さもありなんである。 このような例は決して少なくない。 女性で困っている男性は、女性にモテるのである。 逆もまたしかり、夫や恋人で悩んでいる女性はモテるのである。 何故か。 異性問題が生じるというのは、その人物に何かしのフェロモン、異性を惹きつけずにはおかない大変な磁力が存する証拠なのだ。 そのような問題が生じないというのは、その人間がもう枯れてしまったか、どうしようもない色気もない「朴念仁」か、女性ならばフェロモンが殆んど分泌されなくなってオンナでなくなった・・・可能性がある。 良い男、良い女は決して「余らない」ので、配偶者も恋人も無く、異性問題も抱えていない人間というのは「余り物」と思われてしまうかも知れない。 「余り物」を頂戴してもチットモ嬉しくないと思うのは常識的な人情であろう。 そういうワケで、独身というのは世間的・表面的に何も問題がないという状態ならば、全く「魅力がない」と言っても過言ではないと言えるかも知れない。 このようない状態を認容しても平気な人物というは、所謂「覚者」「悟りの人」であるが、こういう人は多くの場合、異性に物凄くモテル。 油断するとすぐに重苦しくなる傾向のある実人生を、自由でのびのびと軽やかに生きているので、人々の憧れを生むのだ・・・多分。 ミラン・クンデラの小説で、映画にもなった「存在の耐えられない軽さ」という作品はこの辺のニュアンスを見事に表現しているので一見されたい。 今は婚姻率も出生率も下がって、特に先進国では生命エネルギーの急激な落下を感じ取ることができる。 アジアの新興国の、あのムンムンとした熱気というのは、人間の生命のエネルギーの赤裸々な発露と思える。 何故なら生命エネルギーの上昇とは、性エネルギーの増大であり、それはただちに繁殖力、つまり婚姻や出産に結びつくと教えられるからである。 個人的にはそういうことはどうでも良いから、早く「悟り」を開いて自分自身とよく調和し、愛のまがい物に騙されないで淡々と自然に、愉快に独身貴族を味わって生きたいものだ。 ありがとうございました M田朋久 |