コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ ありのままで2012. 5.24

悩み事、心配事の多くは「思いどおりにならないこと」を「思いどおりにしよう」という欲望、或いは「うまくいかないこと」を「うまくいかせよう」という欲望に基づいているような気がする。
モチロン降って湧いたような人災・天災によって、そのような「悩み」の状態に至らせられた人々も多いかも知れないが、そのようなケースですら、やはり「何とかしよう」という欲望は「苦しみ」を生みだしていると思える。

ありのままを受容する。
それをそのまま放置する。
実際には放置するのではなく、心の中でそのまましておくというのは、精神衛生上は善なること、良きことではないかと思える

つまり、その悩み事の状態を何とかするのに心を痛めない、「心労」しない為に、自分の身に起こったあらゆる出来事を丸ごと、ありのままに受け入れてしまうことは不動の「安心感」を得るのに良いのではないかと考えられるし、またそれらの事々を解決する「心構え」としてかなり有益であろうと思える。

「しようがない」
「仕方がない」

このようなあきらめ言葉は一般に良くないことと考えられている。
「あきらめない」
「がんばる」
が良きことのように、巷間ではあたかも法律か一般常識のように流通しているようだ。
ことに先年の3.11大震災以降はこの傾向が強く打ち出され、デフレ不況とあいまって人々の生活をさらに重苦しくさせているようである。

マスコミの露出度が近々異常に高くなっている、元祖テキトー男・高田純次などのCMにおける企業の繁用ぶりを考える時、企業側の理屈として、そのリーズナブルな出演料とその割には時代に逆行した「良いイメージ」つまり明るさとテキトーさが今の暗い世相に必要とされているという風に受け入れられているのではないか。

「あっ、軽い」「明るい」は微妙に一致している。
重苦しさ、真面目くさったものに倦き倦きしているのかも知れない。
意外かも知れないが、病気の人に「がんばって」は禁句である。
暗い世情に「あきらめるな」もチト辛い。

多少、麻酔的であっても「いい加減」とか「テキトー」とか「あっ、軽い」とか「まっいいか」とかの言葉は瞬間的に人の心を癒やしてくれる。
それはパチンコとかゲームとか、他人の甘いや言葉や慰めへ逃げようとするやや麻薬的な行動よりもより主体的で左脳的なもので、実は非常にプラス思考的なものではないだろうか。

話は変わるが、筆者のように「〜という」とか「〜的」という表現は良い文章を作るのに便利ではあっても「禁じ手」であるそうな。
それでも敢えて使ってきた表現である。
このような言葉と同じく、割と安易に使われている言葉もそれこそ「的当」「適当」、「テキトー」で良いのではないか・・・と考えている。要は伝わればいいわけであるから。
人は何かいただき物をしたりすると御礼を言う。
何もしてもらわないと不平不満を言う。
これは別に不自然なことではない。
しかしありのままで、自然で普通なことに感謝をしないのは少しモッタイナイ。

実は「ありのまま」で自然で普通のことの方が人生にとってより大切であることが多い。
普通のこと、たとえば「生きていること」、「生きている」だけで享受できるすべてのことに、そのまま、ありのままで感謝できる感性こそ、今の右肩下がりの日本で、生きていくのに大切なのではないだろうか。

まず、精神を明るくする為に物事を、事態をありのままに受容して、それでもありがたいなぁと思うこと。
その上で我慢がならないなら、少し発散させる為にアメリカやヨーロッパのようにデモやら暴動やら、さらに進んで革命なんかも念頭に入れておくと、忍耐しやすいかも知れない。

日本中に、その記念館を最も多く持つ歴史上の人物、徳富蘇峰の言葉に
「人生は一種の苦役である。
それを不愉快に過ごすか、欣然と過ごすかはその人の考え方次第である」とある。
良い言葉である。
「欣然」と生きて行くのに、まずありのままを受け入れ、そのことに感謝し、精神的土台をしっかり築き、しかるのちに「がんばる」「あきらめない」という積極思考を積み上げるというような。知的なセンスが求められる時代のような気がする。

何はともあれ「自分の思うとおりにしようとしない」という心的態度は、深い心の平安を生む。
またそのような心的態度こそ、逆に物事を「思い通り」にする最も簡単な、ひとつのスキルであることも知っておきたい。「心の平安」とか「愛」とか「無心の境地」とかが物事の成就には結構重要であるのだ。

ありがとうございました
M田朋久


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