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■ 存在論 | 2012. 4.12 |
心の中にモヤがかかったような、ここ数ヶ月、イヤ数年間をふり返ってみると、かつての40代後半の頃のあの落ち着きと、豪胆と、理由の無い愉快さはどこへ行ってしまったのだろうと思っていたが、入浴中に読んだ一冊の本が再び「あの世界」に招き入れ、永遠に近い心の平安とやすらぎを、瞬間的にではあるが生み出してくれた。 2月の夜風が窓に音を立て、木々を揺らし、初春の夜の静けさが心地良い。 世界も宇宙も、暗黒の宇宙を音もなく悠然と、あるいは逆に激しい轟音を響かせながら、渦巻きながら滝壺に落ちていくように、水しぶきを上げるように、激流さながら常に動いている・・・のであろうか。 素晴らしいスピードと広大無辺の光と闇の大パノラマ。 それが私達の生きる宇宙、世界であるのだ。 そうして、それら全てが実は「まぼろし」であることも気づかせてくれる。私たちが神性につながる時、生も死も超越した永遠の生命に触れる時、あらゆる生の苦しみと緊張と不安、競争や対立、富や貧困、痛みや苦しみが消し去られ、深いやすらぎと喜びの世界に入って行く。 神性などと、ややオカルト風の表現をせざるを得ないのであるが、それをどんな名称で呼んでも良い。 本質と呼ぼうが、リアリティーと呼ぼうが、神と呼ぼうが・・・何でも良いが。 究極の存在を、この頼りなくも小さな頭脳で辿れば、行き着くのはやはり世界はたったひとつの全宇宙を創造する、或るひとつの「意識」だ。 それは永遠不変のワンネス。オールワン。 すべての人間は、誰でも簡単にそれにつながることができる。 これはほんの小さな知識でもあるし、それを読んでただ腑に落ちた感覚だけなのに。 感覚されるすべての自我を捨てて、一種の愚者のような無心になることである。 持っているものをすべて捨て去れば良いのだろうか。 殉教者のように何もかも捨て去る必要はない。 よくよく深考すれば、「我々人間は何も持っていないのだ」 人生は勝ち取ったものではなく、与えられたもの。 もともと無いものを捨てるんであるから気が楽であろう。 であるなら「捨てた」という気分でいれば、それで良い。 これなら誰でもできる。 それは大金持ちのささやかな寄付のようなものだ。 心のこもらない施しのようなものだ。 物質的、現世的に見れば、人生は毎日「損失」そのものだ。 時間を失い、若さを失い、蓄積した富ですら個人にとって死と共に現世的に絶対の無に帰する。 ついでに心の柔らかさ、しなやかさ、したたかさを失い、頑なな暗い心や、天性の明るい軽やかな心までも失ってしまう。 無限にある「愛する心」さえ失わなければ、全てを投げ打って「愛する」と覚悟、決心するまでは神性は我々を毎日鍛えてくださるのだ。 多分・・・。 「これでも分からないのか、お前には」なんてネ。 とにもかくにも、有難いことである。 そういう真実に気づかされただけでも。 ありとあらゆる「存在」について、少しだけ考えてみるだけで、何かしら哲学的思索に向かうらしい。 2月の或る夜に思いついたこと、気づいたことを素直に書きつづってみた。 読んで下さってありがとうございます。 M田朋久 |