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■ それぞれの春 | 2012. 4.11 |
色々な本を読んだり、セミナーや講演会に出て、気楽に勉強していると、西洋医学と東洋医学とか、和と洋とか、考え方の特徴に、いつも思いが至るのである。 それは一般化と個別化の傾向についてである。 究極的には、絶妙にバランスさせていくものでなければならないのではないか・・・。 現在は極端な一般化は減ってきているが、それでも或る理論を発見したぞーと述べている方々のモノの言い方には必ずこれを感じる。 理論というものの特徴は、一般化の最たるもので、これをあらゆる人に、無意識に当てはめて行こうとする傾向が、特に知的な人間には存在するのではないだろうか。 極端な「自分の理屈」へのこだわりは一番困ったものだが、周囲も本人もこれで色々な場面で何かと精神的に苦悩を味わい、人間関係でも窮地に立たされることが多いような気がする。 こと精神面に限っても、最近、筆者が考えていることのひとつが、「人間はそれぞれに自分だけの世界観を持っていて、それぞれの心は異なる宇宙に住んでいる」のではないかというものである。 昨年の3月には歴史的な大震災が東日本を襲った。 それで「日本は変わってしまった」という人をメディアや雑誌で見かけるが、果たしてそうなのだろうか。 こちら九州では、正直に述べるなら、日常生活において、そのような実感は殆んど感じることはない。 被災者の人には悪いけれど、やはりどうしても「対岸の火事」なのである。 実感できる変化と言えば、コンビニの募金箱と隣の新築家の建つのが建材不足で遅れている・・・ということくらいだ。 日本人の「絆」も、やはり瞬間的なもので、今やみちのくの地も野次馬根性の秘された、単なる好奇心の対象になった感がある。 「とりあえず見ておこう」とか「とりあえずボランティアでも」とか・・・。 こういう傾向はあまり好きではないけれども、無関心よりもはるかにマシであろう。 大して興味もないのに行列ができているから並ぼう・・・なんて感覚でも結果お役に立っているのであれば、結構なことである。 話はまたそれたが、個人と個人とが本当に共感し、共鳴した時には、何らかの感動を伴うもので、その感動を世界観、宇宙観の一時的な共有があり、それは決して単純な理屈や、所謂価値観の共有ではなく、本当の「絆」と呼べるものではないあだろうか。 そういう意味で同情。 これは愛情と同じように必要なものではある。 これはされる側を見下したように聞えるか、弱い人、可哀そうな人々、困っている人々を「助けよう」という最初の動機であろうと思える。 「上から目線」でなければ同情、憐憫そのものには愛のようなものが含まれている気がする。 「可哀そう」と「可愛そう」。 後者の言葉は、実際には存在しないけれど「カワイソウ」という感情は、極めてよく似ている。ちなみにこの同情心も人間の脳の解剖では、前頭葉のかなり高度な働きをする部位に存していて、凶悪犯罪の常習者にはあきらかな、機能低下があるらしい。人間の同情心も結構大切なものなのだ。ひょっとして人類のこころをかろうじてつなぎとめて何とか平和を維持させているのはそれぞれの脳の中に共有している「同情心」なのではないだろうか。 同情から愛が生まれることはよくあることだが、ここで用心しなければならない。 「人は愛してくれる人、世話してくれる人、同情してくれる人、援助する人を嫌悪するという傾向があり、一方で愛する人、世話をし、面倒をかける人、同情を感じさせる人、援助している人を愛するという特徴もあるのだ」。 つまり、関わってくる人が自分の自由を脅かすように感じられる、見下されたように感じられるということが心理的メカニズムであるらしい。 よく考えてみると、どちらも誤解であり、誤った感覚であるのに劣等感の強い人は自然にしていて、このような傾向を感じながら毎日を生きておられる・・・ようだ。勿体ないはなしである。 このような感覚もそれぞれであるので、要は本人がどう感覚し理屈に納得するかである。 「ゲシュタルトの祈り」は、人間関係についての有益な示唆をくれる。 「われはわが事をなさん 汝は汝のことをなせ わが生くるは 汝の期待にそわんがために非ず 汝もまた われの期待にそわんとて生くるに非ず 汝は汝、われはわれなり されど、われらの心 たまたまふれあうことあらば それにこしたことなし もし心通わざれば それもせんかたなし」 この祈りと同時に、人は「それぞれ」「おのおの」と思うと、とても気が楽である。 話をしたくらいではナカナカ心が通じ合うことができないことは、多くの人が実感していることであろう。 説得と納得は口で言うほど簡単ではない・・・のだ。 であれば、他人を変えようとする意図が潜在する説教、説得、カウンセリングの一部、話し合い、会議など、あらゆる人間の対話と称するものは、実りの無い不毛のものも多いと自覚していることは自らの精神衛生上、有益なことである。 それでなくても「話を全く聞かない人」「モノワカリの悪い人」「頑なな人」という人は、かなりのパーセンテージで存在しているのだ。 その上、それぞれの相性の問題でもあったりして、とても複雑である。 春の花は桜。日本人の気質も象徴している。 それは、ある時期が来ると一斉に咲き、一斉に散る。 これは日本人の同質性、均質性、或る種の潔さを表すと同時に、集団行動「絆」を意識させてくれるものでもある。 けれども、騙されてはイケナイ。 花には色々あるのだ。「百花繚乱」というのではないか。 さまざまな何千種の植物も、日本は諸外国とくらべ、その多様さを誇っている。 多様性と同質性をバランス良く併せ持った国民が日本人であるのだ。 「桜」に象徴される春のうららかな大気は、人により悩ましくもあり、のどかで安らいだものでもある。 全く人それぞれなのだ。 その同質性、均質性に執着した時に、学校ではいじめがあり、社会では異端、白眼視、世間を揺るがす大事件の生じた時には、マスコミの集中豪雨的で一方的一面的非難が容易に起こる。 春は一様、しかし人はそれぞれ。同じ春でも被災者の人々にとっては大きなトラウマかもしれず、無邪気に浮かれてばかりもいられない。典型的なうつ病では春に悪化する。色々考えると・・・春って悩ましい・・・なあ。 ありがとうございました M田朋久 |