コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 「在宅」というまやかし2012. 3. 2

政府のすすめている医療福祉政策において「在宅医療」というキーワードが流通していて、多くの日本国民もこの言葉の甘い響きにはぐらかされて、その方針に異論を差しはさまないでいるので、少しこの件について考えてみたい。

高齢者介護において「在宅介護」というものがいかに非効率で、人々の手間ヒマとお金と家族の負担がかかり、「施設介護」の安全、経済的・人的効率性について比較検討がなされたという、明らかな議論の形跡がないまま推し進められている事実がある。
政府や、或る種の専門家の人々のアタマの中はとても単純に、年を取っても、病を得ても在宅、つまり「自宅で過ごす」ことがシアワセでお金もかからず、入院とか施設入所というのは、孤独で、辛くて、お金がかかって、姥捨て山的に悲惨な状態と思っておられる方が多いのではないかと思える。

これは多分に昔のイメージで、つまり老人ホームは姥捨て山で、病院は窮屈で暗いところ、又それらの医療福祉施設への入院入所はお金がかかるというような、割にステロタイプ的、情緒的な思い込みに根ざしている・・・ような気がする。

ごく単純に考えても、10人の要介護の老年者を看護介護や他の医療サービスを提供するとして、1ヶ所に集まってもらって(住んでもらって)若い介護者・看護者やドクターがそれらのサービスを提供するのと、10か所の各家庭を巡回してそれらを行うというのは時間的、経済的、空間的、手間ヒマ的に、いかにも効率的でない・・・ことは小学生でも解る・・・と思えるのだが・・・。

また在宅医療、在宅介護というものはある意味で贅沢でもあり、残酷でもある。
その悲惨でさえある状況というものも、未だに特別養護老人ホームの待機者が数多くおられるという事実からもうかがい知れる。

筆者の開業時、つまり30年前には高齢者が脳卒中や老衰で倒れたりすると、今のような介護施設も無かったし、入院もお金がかかってままならない場合、こちらの田舎ではそのおじいちゃん、おばあちゃんは、日中でも陽の当たらない、狭くて暗い納戸の奥に寝かされて、ロクに介護も食事も与えられず、孤独に耐えて、痛みを我慢して過ごしておられたのを数多く診てきた。
断っておくが、そのような老者を抱える家族の面々が、とても非情で冷たい人間であるということは無い。
忙しくてそんな余裕が無いだけである。

それらの方々を何人か往診していた頃と比較すると、今はある意味天国のようである。
老年者介護についての認識や設備が整っているという意味で・・・選択肢が数多くあるという意味で・・。

息子や嫁や孫がいる、もしくは老夫婦二人の暮らしに在宅(自宅)が、生きることが必ずしもシアワセとは限らない。
ましてや病や体の衰え得た人にとっては尚更のことである。
多くの家族に囲まれた老年者の「孤独」の悲惨さを一般の人は知らない。

日中の家には、子供も息子夫婦もおらず、独居状態で放置されていることが多いのだ。
昔、曾祖母のことを「トシばあちゃん」とか言って、家族皆で深く敬い、尊ぶ時代は、はるか昔に過ぎ去ったのかも知れない。
また、元気な老年者は多くても、尊敬されるお年寄りは対象としても被対象としても種々の意味で少数派のような気がする。

人間の生活は食事と排泄と入浴と、テレビやラジオ、読書などのほんのささやかな娯楽で成り立っており、それらのごく普通の日常行動ですら加齢や疾病を得ると、独居や老夫婦だけの生活ではままならない。

在宅の意味というのは、自宅とか、所有する物品とか、思い出とか、多分に情緒的なものであることが推測される。

「純粋にただ生活する」だけであれば、物はできるだけ持たないが良い。
生活スタイルはシンプルな程良い。

飲んで、食べて、寝て、出して、洗って、時に愛し合って、遊んで、そんなシアワセな生活は、或る程度の健康があって享受できるのもので、多くの所有物もそれらの前提あってこそ「楽しめる」ものである。

ただ生きるのに、生活するのに精一杯な状態になれば、それらの自宅・在宅に関わる人間関係、物品等にいったいどんな意味があるのだろうか。
ヒト・モノを管理するという意味合いで、逆にお荷物になってしまうのではないだろうか。
以前、事情があって別に1DKの水道光熱費・駐車場込み込みで5万円程の家賃のレオパレス21というところに2年ばかり住んでいたことがあった。
この時には殆んど着の身着のまま、ワンバッグに、所有物と言えば1〜2着のスーツと数冊の本だけというシンプルな生活をしていた頃があって、この時には結構スッキリとした気分と新鮮な、少し若々しくなったような心持ちを味わったものだ。
食事は外食かコンビニ。
もともと、物にはこだわらない生き方をしてきたつもりであったが、実際に自宅に溢れかえった物から離れてみると、さらに良い気分になった。
さらにそんな生活の中、或る時、突然ギックリ腰になって、一時期動けなくなってしまった。
言うならば、俄か「寝たきり」状態になってしまったのだ。

要介護高齢者の心境というものがいかなるものか・・・と少し実感できた気がする。
とにかく生活上のあらゆる挙措が不自由なのであるので「Help me!助けてくれ〜」てな状態、心境である。

こんな時に我が高齢者介護施設に入所していれば・・・何てことを考えてしまった。
個人差があるとは思うが、このような状態で家族に頼るというのは、誠に心苦しいものである。これは統計的にも約70%の高齢者が抱く正直な感想である。
その上、彼ら(家族)はその道(介護、看護、医療)のプロではないし、たとえ短期間でもそれらの人々や物々の中で過ごすというのがいかにも重苦しく、わずらわしいものか想像に難くない。

筆者の理想は、年を取って、お金があったら高級ホテル住まいである。
衣服やその他の所有物は別室の倉庫かオフィスに保管し、必要があればその都度取りに行く。
もし健康であれば、そのように暮らしたい。
もしもカラダが不自由であれば、迷わず施設に入所する。

人間は生きていればトシを取る。
何かと日常行動が不自由になる。
制限される。
その時に人々、物々の氾濫する「在宅」で暮らすかシンプルな介護付シルバーマンションが良いか、自分の家が良いのか、自らの想像力を総動員して一考すべきであろう。

今は少子化、不景気で「自宅」に人々は住んでおらず、成長したまともな子供は家などにはおらず、夫婦関係も実質的には風前の灯状態・・・なんていう自宅であれば尚更であろう。

昔の貧民部落とか「文化住宅」「向こう三軒両隣」の「長屋」暮らしで、近しい「赤の他人」との軽い共同生活こそ理想のリタイヤ人生の生活の場所にふさわしいのではないだろうか。
あの孫正義の祖母ですらこのような選択をして晩年を生きたそうである。

在宅という言葉は「家」にこだわっていた昔の考え方である・・・と思える。
要は、それぞれの人生観であろうけれど「家」というモノは、カタチとしても概念としても既に形骸化しているのではないだろうか。

団塊の世代が、高齢者に入るときに物質主義者、経済成長信奉主義者であったとしても、すんなり「在宅」を選ぶとは思えない。

「在宅」を推進する人々が、その経済性を追求しているとしても「在宅」至上主義というものがあるとすれば、それはもうはるか昔に「時代遅れ」となったのではないだろうか。

だいたい役人の仕事というのは、時代に遅れること平均15年だそうである。

一般の社会の認識とか感覚がズレているという意味で、医療人は3年、経営者でも10年。一流の経営者は10年先、20年先、100年先を見ているのに・・・。
これからの将来設計を考えておられる方々も、家というものがただの不動産で換金性の高いものであったら、トットと処分して「共同生活的独り暮らし施設」入所を考慮しておいた方が良いと思える。
人口の減っている国で、不動産価値が上昇することなどあり得ないのであるから。

ゴーストタウンと化すであろう「自宅」の集合体、住宅地の未来が目に浮かんでくる。
ある国際アナリストが、介護老人を輸出、若者を輸入するというアイデアでこれを乗り切れると述べられていたが、これも少し違う・・・と思う。

日本人の「情緒」の問題が、深く重く沈潜していて、外国の生活がいかに便利であったとしても、緑と水と日本人の細やかで繊細な情感や文化を配慮しないで、これらが成長するとは思えない。

ありがとうございました
M田朋久


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