コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 時間切れ2012. 1.31

「たられば」即ち「〜したら〜します」とか、「〜になったら〜してあげます」とか、「〜れば〜なるのに」とかおっしゃる方々というのは多分、人生には限りがあり、今持っておられる容姿や若さや、さまざまの生命のある肉体には賞味期限があり、何もしなくても何も起こらなくても、時間が来たらすべてキレイに終わってしまうものである・・・という自覚が足りないのではないかと思える。

スポーツ番組などを見ていると、時間があらかじめ厳密に決めてある競技があって、それはサッカーとかバスケットボールとかラグビーとかホッケーとかのポピュラーなもので、これらのスポーツでは全試合を通じて、特に後半に入ってくると時間との戦いであったりする。
例えば勝っている方は懸命に時間稼ぎをし、負けている方は頑張って時間を最大限有効に使って得点を決めようとする。
負けている側と勝っている側では明らかに時間感覚が違っていて、それは多分真逆であると思える。勝っている方は長く感じ、負けている方は短く感じる・・・はずだ。

これらのスポーツでは、勝敗を争わなければ何もしないで時間をやり過ごすこともできる。
つまり、何もしなくても時間が経てば終わってしまうという性質を持つスポーツで、これはとても人生とよく似ている。

日本人の大好きな野球とかバレーボールには、この時間制限の感覚が微妙に違っていて、投球とかサービス(サーブ)を始めなければ試合は進行しない。
サッサとやってしまって終わることもできるし、或る程度長々とゲームをしていることもできる。
時間がくれば終わるという性質のものではないので、感覚的には人が行動を起こすことが肝要となる。

実人生は果たしてどちらのスポーツの時間に似ているのであろうか。
筆者の親しんでいるスポーツはバスケットボールとオートバイなので前者は時間、後者は行動・・・となる。
その時間は明確に、いつまでと決まっていないというあいまいさはあるものの、実際の人生の生というものは明らかに前者、即ち「時間切れ」が必ず厳然とあり、それは絶対に訪れる。

この事実を正しく見つめていれば「〜たら」とか「〜れば」とか言っておられず、その人生の一瞬一瞬を有意義に楽しく過ごすべき・・・というより過ごした方が良かろうと思うのだけれども、何の行動も起こさず、また有害無益な思考・言動・行動にその貴重な時間を埋めさせておいて「あ〜でもない、こ〜でもない」とか「こんな筈じゃなかった」、「あの出来事が無ければ・・・」とか「あの人のせいで・・・」とか心はいつも後悔とか未来の心配、過去と未来の因果関係を探ってばかりで、実際の有益で楽しい行動を起こさず、結果的に「人生で負けてしまう」人々のなんと多いことか。

我が身を振り返ってもしばしばそんな感慨を持つ風であるので、周辺の人々の中にそのように口に出す方がおられても、あまりこのような自説を述べることも無く、ただウンウンと聞いているのである。

「時間切れ」を意識する。
そして今「勝っているのか」「負けているのか」・・・「意味がある」のか「意味が無い」のか、それぞれの問題ごとに吟味してみるのも一法かも知れない。
自らの人生を「有意義であった」「楽しかった」「良かった」・・・と確信する為に。・・・後悔しない為に。

筆者は時々、人を心の中で色分けすることがあって、それはあ〜この人は「野球の人」、あ〜この人は「サッカーの人」、「バスケの人」というもので、前者から順に時間感覚の鋭さが低くなっていると見ている。
時間と行動、これはアインシュタインの相対性理論風に考えると、「積極的で有益な行動は時間を伸ばす」・・・と思える。
中身が自分の為か人の為かを問わずである。

「人生は時間の使い方次第ですヨ」と言い切って良いならば、思考と言動については少し用心したい。
その為には、まず物事を「何か」の、あるいは「誰か」のせいにしないことであろうと考えている。
自分の時間を無駄にせず「今、自分にできることの最善は?」に切り替えて行くことではないだろうか。

ありがとうございました。


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