コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 「考えない」技術2012. 1.26

多くの心の病気が、考えすぎることで生じているように思える。

筆者も30代頃には、瞑想とか座禅に凝って毎日実践していた時期があって、この時にはとても心が安定していて、気分も良く、今のように精神安定剤とか鎮痛剤とか抗うつ剤とか睡眠薬のお世話になることも無かったことは再三お伝えしてきたことである。

ベジタリアンと瞑想の組み合わせは、確かな「心の力」を操る方法として最良のものと思える。
今より10数年も若い頃に、種々の不安感、虚無感、恐怖感、焦燥感から心が解放され、カラダも良く力が抜けてすこぶる元気であったのには、単に「若さ」だけによるものでは無かったような気がする。

今でもあまり衰えたという実感は無いけれど、心から以前より幾分不安定で気弱になったような感じがする。

最近はバイクに乗り、バスケットも再び始めたので、心と体の安定がプレーの出来不出来に影響のあることが分かったので、「心の状態」とか「体の感じ」について意識して「良い感じ」を掴むように再び色々と工夫しているところだ。

バスケットやバイクの自分の心身安定状態の基準、メジャーリングとしての価値は結構高いものではないかと思える。

つまりバスケがうまく出来る時には心身の調子が良いと言える・・・。
バイクの乗り味が良い時にもそれは言える・・・と。

先日、NHKの「ためしてがってん」とか言う結構胡散臭い健康番組を見ていたら、パニック障害、種々の不安症についての治療法・対処法についての良いアイデアがあって、筆者もこの件については少しく得心したので、その内容について述べてみたい。

殆んど受け売りなので、その点はご了承下さい。
@今ここ
「考える」というのは「今ここ」にいない為。
今とここに集中していれば考え続ける・・・。
これも「意識」して行けば「今ここ」であるので、本来は微妙な問題で、実のところ常に「意識」さえしていれば「今ここ」にいることが不可能なワケではない。

さて「今ここ」に心を置くというのが馴れないと結構難しい。
そこで、この番組の研究者のアイデアである
A「・・・と思った」
これはとても良い手法である。
あれこれ考え続ける。
もしくは心に湧き起った不安、恐怖、悲しみ、喜びなどをすべて客観的に観て「・・・と思った」と完了してしまえば、思考の連鎖を断ち切られ、次々と浮かび上がってくる「考え」が客観視され、小川の流れに乗った枯れ葉のように流してゆくというものだ。

実際に心を落ち着けてやってみると、ずい分気分が楽になるのを感じる。

うつ病をはじめ、パニック障害、不安障害などなど、これらはすべて合併しやすい病気である。
これらのこころの病気の脳の活動を測定してみると、前頭葉の背内側前頭前野の活動低下、機能低下もしくは萎縮が起こっているそうである。

確かにこれらの疾病を持った人々と話をしていると、この「客観視」が困難になって、言葉は悪いが「アタマが悪くなっている」という印象を受ける。
つまり物事の冷静客観的な判断力が鈍くなって、物事の軽重にかかわらず、それらをどちらかというと重く受けとめてしまう傾向があるようだ。

第三者から見れば「な〜んだそんなこと」で悩んでいたの・・・なんて明らかに思えることが本人にとっては深刻な悩み、「人生の重大問題」になっているのだ。

これらは「客観視」の中枢である、先述した脳の中の背内側前頭前野の働きの問題で、心の中の色々な問題について整理する、整頓する、価値づける「何てことないじゃん」「どうでも良いんじゃ」「な〜んだ」「まぁいいか」なんていう気分にならないのだ。

これらの心の反応を薬物で緩和することはできるし、この方法も治療上決して邪道でも危険なものでもないが「・・・と思った」とか本格的に集中して、瞑想とか座禅とかを実践すれば、ひょっとして自然にそれらの病気が治るかも知れない。
以前、まだ現役バリバリでバスケのゲームに出ていた頃、国体選手並みに上手なプレーヤーにコツを尋ねた時に、皆さん一様に「考えない」とおっしゃっておられたが、上記したような意味なのであったのか・・・と今は思う。

スポーツや武道上達の極意に「静虚動直」という言葉があって、これもひとつの「考えない技術」であるかも知れない。

ありがとうございました
M田朋久


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