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■ 運転免許証 | 2012. 1.18 |
18才で免許を取得してから、この小さなカードには四十年間いろいろと悩まされ考えさせられてきたので、思うところを少し書き綴ってみたい。 今日、平成24年1月13日は運転免許証の更新のための講習会の日だ。 昨年暮れからこの日は心の内やや重苦しい緊張を強いてきた。 3年毎の定期の更新だけでなのに・・・。小さな違反や事故の記憶の累積が知らず知らずに我が心の深底に沈殿しているのであろう。 それにまつわる免停とか免停講習。「ネズミ捕り」とか覆面パトカーとか交通警察との嫌らしいやりとりとか。 色々な意味で全てが思い出深い。 地元の警察署の会議室で行われる講習の内容は経年的に少しずつ変化しており、その雰囲気もずい分人数が減ってしまい、以前のザワザワと混雑した趣が無く寂しくなっている。 講師の先生も気持ち悪いくらい丁寧な口調だ。 2時間の講習のウチ1時間は退屈しないようにビデオ鑑賞が用意され、無名の落語家が出てきて安全運転の知識を分かり易く解説してくれる。 とにかく少しずつ進化していることは事実である。 内容のメインテーマは主に2つ。 ひとつは安全運転の技術、知識について。 もうひとつは交通ルール。 中でも免許制度と罰則について詳しい説明があった。 行政処分の点数と禁固刑、罰金について。 特に平成19年9月からは飲酒運転についての罰則が厳しく強化されている。 お酒を提供した者や、同乗者についても運転者と同等程度の罰則が適用され、運転者の周囲の人々への法律的働きかけがますます強くなっている。 このような法律強化の流れを見ていると、江戸時代の法制度と共通するものを感じる。 犯罪者が一人出ると、血縁者・家族全員が罰せられる、所謂、選挙違反時の連座制を想起させる。 今でも法的にはともかく、マスコミを賑わす大事件になると世間のバッシングが当然のように起こり、現実的には江戸時代と少しも変わらない。 日本のムラ社会とは、集団責任制で、決して純粋なカタチの自己責任型社会ではない。 何でもかんでも誰かとか、何かに責任転嫁をしているのだ、 とにかく日本の社会では個人の裁量に属することについてイチイチウルサイ。 飲酒運転にしても、よく考えてみると本人が悪いのか酒が悪いのか分からなくなってくる。 「飲酒運転」となった途端、他の事故原因とその分析が軽視される傾向があるのではないか・・・。 個人のだらしない性格や、その事故時の状況はそっちのけにして「酒だけ」のせいにするのも一種の責任転嫁ではないだろうか。 「飲酒」という言葉で警察も当事者も社会も或る種の思考停止が起こるように思える。 飲ませたヤツが悪い。 同乗した者も悪い。 ・・・というワケである。 果ては酒やクルマが悪い・・・ということになるかも知れない。 日本という国は或る意味お節介社会、世話焼き社会、神経質社会、集団ヒステリー社会、集団責任社会であって、純然たる自己責任社会ではない。 個人の裁量や責任をあらゆる方面から制限を受け、マスコミの俎上に載せられるような大事件になると、その責任転嫁は、組織などでは上司の責任、会社の責任などに発展していく。果ては監督官庁の責任も追及されたりする。 筆者の感覚では、言葉を替えると責任分散社会と思える。 何かしら事件があると、原因追究するのは当然としても必ず何がしかの原因を発見し、何らかの対策をたてないと気が済まないのだ。 或る意味、そのような作業の積み重ねで社会が進化発展してきたワケであるから、必ずしも悪いことではないけれど・・・。 こと飲酒運転については「周囲の人を巻き込む」可能性が明然とあるのであるから、法律的に必死になって飲酒運転を止めさせようとするのであるが、これも集団主義的解決法と言えなくもない。 また、その効果はかなり高いと思える。 所謂、交通三悪とは、無免許運転・スピード違反・飲酒運転であるそうな。 そして携帯電話、脇見などの前方不注意も安全運転上の重い法律違反だ。 統計的にこれらの事故原因、それも運転者に特定した統計的分析ならば、いずれも交通事故問題の背景について正鵠を得ていると言える。 交通行政、即ち交通事情研究者や警察の事故対策担当の人々の努力がうかがえて、結果的に交通事故、中でも社会にとっても個人にとっても深刻な問題である死亡事故は少しずつ減少しているようである。 喜ばしいことだ。 職業ドライバーでもなく、ただのクルマ好きのオートバイライダーであるけれど、交通環境が安全になった分、窮屈になったようにも思える。 道路という公共施設をみんな共有して使用しているワケであるからあらゆる人々にとって交通安全というものはとても大切なことである。 混雑した高速道路や交通量の多い街中で、クルマやオートバイを運転していると、それぞれ個人が一見バラバラに、自由にそれらの移動式機械を操作しているようでいて、実はお互いに絶妙に連携しながら、時々は感謝や陳謝の合図を目礼や手上げやウィンカーなどの合図機器で親愛の信号を送り合いながらゆずり合い、時に攻め合いながら比較的良好な人間関係、クルマ関係を無意識に維持、構築して流れているのを感じる。 その中に凶暴なスピード狂や性格異常者、人為的人格障害(飲酒)、どちらかというと無自覚の全身的な機能低下の起こっている高齢者などは確かにその程度に応じて確かな法的制限が必要なのであろうと思える。 いずれにしても筆者の場合、無免許運転でもなく飲酒運転(酒をやめた)の可能性も無く、後はスピード違反か前方不注意とかに気を付けて、意識を清明に保って事故を起こさないように、注意深く運転することである。 考えてみると、免許証を大事にすることは、自然に安全運転になるであろうからこのような講習会も悪いアイデアでは決してない。 クルマが好き・・・。 オートバイが好き・・・。 これは交通安全にとって良いことではないかと思える。 人間の社会活動において、とりわけ日本の社会というのは確かに安全安心に向けて日々、みんな一生懸命知恵をしぼって努力しているという風が見受けられて、考えてみればとても有難いことではある。 要は色々な法律において個人を制限し窮屈と感じるか、守られているなぁ〜と感じるかはその個人の感性であろうけれど、当然ながら後者の感覚の方が精神衛生上好もしいと思える。 丁度120分の違反者更新時講習(このように呼ぶらしい)、勉強になりました。 ありがとうございます。 M田朋久 |