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■ 選択 | 2011.12. 4 |
開業医の長男に生まれて、自分の人生には殆んど選択の余地が無く、敗北(医者にならない)か勝利(医者になる)かオールオアナッシング的未来しか眼前に提示されていなかったような気がして、思春期の反抗時代に一時期その精神的圧力から逃れたくて瞬間的に非行に走ったものの、最終的には親がかりで私立の医大に入学し、何とか医者になったワケであるから、自分なりに勝利したと思っていた。 ・・・けれどもその勝利は自らの意思で明確に選択し、決断、実行し継続して得たものではなく、周囲の期待に添って流れてきたようであるので、いささか他力本願的である。 モチロン本人なりの相当の努力もあったのであるから、何ら恥じ入ることもないと思う。 その上日常に仕事に至極満足しているし、或る意味とてもシアワセな日常を送っているようである。 何となくボーっと生きて来たような感覚があって、時々はそんな風な「お坊ちゃま的」というか「オンボ日傘的」というか甘〜い人生を過ごして来て、周囲に対して時々ウッスラとした罪悪感みたいな感覚も感じていたので、先日NHKEテレ(昔の教育テレビのことではないが・・・)でコロンビア大学のシーナ・アイエンガー女史の経営学講座を視聴した時に或る衝撃を受けたので、ここに少し記しておくことにした。 このインドの女性であるらしい風貌の女講師の話は「選択の物語」についてで、私達は常に選択を迫られていて、誰もがいつも選択をしたいし、選択を迫られてもいる・・・というような内容であった。 たとえばストレスについても、動物園の象とか北極熊(シロクマ)とかは野生の方が動物園のソレらよりも3倍も寿命が長いらしく、野生の方が食べ物を狩る(得る)とか天候の変化に耐えるとかのストレスがあるようで、実はそれらの困難(言うならばストレスであるのに)を乗り越える、克服することの全体にはストレスは無く、動物園の熊さんや象さんのように何にもしないで良く、エサも与えられ、肉体的には何不自由なく暮らせるというのが実は物凄くストレスフルであるらしいのだ。 その第一が「選択できない」こと。 コントロール不能ということで・・・。 このことがストレスである。 或る高齢者施設の実験でも「何でも頼んで下さいネ。それをいたしますから」という問いかけ、働きかけよりも「これとあれがあります。たとえば映画と演劇があります。どちらにしますか?」と尋ねられたグループの方がより健康度が高かったそうである。 つまり、ここでも「選択する」「選択できる」「コントロールできる」というのは、動物であれ人間であれ、生き物の健康にとってとても重要であるらしいのだ。 そうしてもっと重要であるのは、私達人間はどのように「考える」のか、どのような「考え方」をするのかを選択できるのに、現実には多くの人々がそれらの選択の権利を放棄しているように思える。 実際にあった2つの物語を提示して見せた。 スティーブン・キャラハン。 ヨットで航海中、船が沈没。 小さな救命ボートで広々とした大海原を漂流することになった。 水も食料も限りがある。 この極限の中で航海日記に「自分は切実な選択を迫られている」。 それは「何もしないで自分の死を眺めているのか、それとも生きのびる為に戦うのか」・・・だそうである。 そうしてこのヨットマンは後者を選択し、76日間も大海を漂流して発見され見事に生きのびてみせた。 アーロン・ラルストンは登山家。 360kgの大石と共に転落し、その左手は下敷きになってしまった。 前氏と同じように選択をし、決断し、実行し生きのびたこの物語は最近映画化もされた。 自分の腕を小さな登山ナイフで切断し6時間も生きつづけ、ついに発見される。 127時間にも及ぶ深い呻吟と自分と自然との激しい格闘が描かれているらしい・・・(未だ観ていない)。 このように自分のコントロールをはるかに超える困難な状況にあっても、自らの心をコントロールし、前向きな選択をし、人生を勝ち取っている稀有の由起ある人々の感動的な行動を思う時、平穏に暮らす多くの人々の心の何と後ろ向きなことヨ。 そんな極限状態に無い安寧な生活であっても、毎日の生活の中で折角生まれて来たのであるから自らの人生生活についての「考え方」についてくらいは選択するという選択も面白いかも知れない。 配偶者や仕事を選択するよりはるかに簡単で、その割に実効は大きくその果実はとてもおいしいと思える。 選択→決断→実行→継続 ひょっとしたら人生のすべてを実現できるかも知れない。 その第一歩は「考え方の選択」であるように思える。 たとえば「これからは新しい人生を創造する」・・・というような選択を・・・。 ありがとうございました M田朋久 |