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■ 嫉妬と恋 | 2011.10.17 |
人間の日常生活というのは概ね食事と排泄と睡眠を中心に営まれているので、これらを自在に操ることができれば、果てしのない自由を勝ち取ることができると常々考えているのだが、どうしても食わずにはいられず、出さずにはいられれず、眠らずにはいられず、毎日色々と生活のパターンを変えてみて自由感覚を得るべくチャレンジしてみるものの、どうしても自由自在とまではいかない。 つまり、この3つの活動に縛られてしまっているのを感じる。 特に海外旅行などに行くとこのあたりの「不自由さ」を強く深く認識させられて、普段の生活がいかに快適で自由で安全でのびのびしていたのかを思い知らされて、ありがたいやら、かなしいやら複雑な心境を味わう。 その上、時にはモヤモヤとした性の衝動も時々身内に出現して来たりして、人間生活というものにおける欲望というものの生み出す深い喜びと、それらの活動についての煩わしさや物悲しさが感じられて時々憂鬱になる。 前置きはさておき、表題の「嫉妬と恋」に戻ろう。 恋の始まりは個人的には一目惚れから始まることが多い。 その軽重深浅はさまざまでも、一瞬にして恋に落ちる。 そうしてそれが深ければ深い程その場から逃げ出したくなる、離れたくなる。これは何故かというに、嫉妬して苦しむのが嫌だからであろうと考えている。恐らく、甘やかな恋心の中に必在する、特に嫉妬心の生み出す長く苦しい心の葛藤から逃れていたい、自由でいたいが為であろう。 もともとかなり嫉妬深い心を持っているので、その彼女の過去やら現在や未来にわたるまで嫉妬してしまう。そうして疑い深くなり、独占したくなり、そんなことを完全に実現(独占)するのは無理なので、早々諦めてこれはもう心理的にも時間的にも逃げの一手か、やたらに一緒にいたがるかである。もしくは用心深く関係性の維持と距離感を保つ為にゆっくりと近づくか、離れたままでいようとする・・・ようだ。さらにその人との相性の問題もあったりして結構ヤヤコシイ。 こんなことを考えるようになったのはやはりトシのせいかと思える。 若い時にはもう自らの性の衝動の奴隷であり、虜そのものであり、まるで発情期のケダモノがメスを取り逃がした時のように激しく悶え苦しむ。 「どうかこの私の苦しみを取って下さい」 とお願いする事柄の第1か第2はこの恋によって生じた嫉妬の苦しみに他ならない。 あ〜何とこの愛欲煩悩というものの業の深さよ。 最近ではこの最大の煩悩がやや薄れてきていることも事実で、これはまたこれでいかにも寂しい。 ところでこのように嫉妬の苦しみと恋の悩みはだいたいとても似通っているというか、同じではないかと思えることの第1の理由は「嫉妬の終わりは恋の終わり」と言えるような気がするからであるし、相手に対する恋着とか執着心を計測する指標としてこの「嫉妬」というものがあるような気がする。 賢い(?)女性になると、わざとこの嫉妬心を煽って相手の心を刺激して反応みたり、自分への恋心の度合いをはかったりするらしく、大概の男はこれに簡単に乗り、まんまと結婚させられたり本来の配偶者や彼女との別離を完遂させたりしてこれまた結構罪が深い。 好いた惚れたはシャバの宿命。 男女間の愛憎劇を中心に世界はまわっているように思え、先述した日常生活の食と睡眠の一定のリズムに時より闖入して大暴れするようだ。この恋と嫉妬の嵐は人間の穏やかな日常生活を見事に打ち破ってゆき、果てしのない泥沼のようなドロドロとした欲望の渦に堕ちてしまって、本人も周囲もひどく困らせることがままあるようである。 モチロン逆もあって、殺風景な日常を素晴らしく生き生きとさせ、桃色に輝かせてもくれる。 しかしながら4年程接すると、この恋の嵐も治まってしまい幸か不幸か嫉妬の苦しみも終わってしまうのである。 しかし恋が終わったからと言って、愛が終わるワケではない。 イヤ、恋の終わり、嫉妬の終わりと同時に本当の意味のおだやかな純愛が始めるようにも思える。 激しい性の衝動(恋)が静まり、男女間に温かい親しみと深い信頼とが築き合われた時、その二人の間には純愛とも呼べる真実の愛が芽生えてくるのだ・・・と思う。 逆に考えると真実の愛には性の衝動が薄く、結果的に嫉妬も生じないこともあり、これこそが正しい恋愛のあり方なのではないだろうか。 以前に或る作家が日本人の色恋沙汰は殆んどドロドロとした性的関係のみで、恋愛ではない性愛であると述べておられたが確かにそう言えるかも知れない。 渡辺淳一の「失楽園」とか「愛の流刑地」とか、太宰治自身の入水心中事件とかをたとえに挙げるまでも無くもなく、日本人の恋愛・色恋の果てが文人を中心に起こる「心中」とか「駆け落ち」とかどこかじめじめと暗く陰性のイメージで、モノモノしいやや破壊的な衝動に帰結しているのが西欧人よりもことこの色恋・恋愛については日本人方が多少情緒的であっても幼稚で未成熟に思える。 キリスト教的な愛の精神が稀薄だからかも知れない。 それだけ自らの欲望、性の衝動に忠実、正直とも取れるが、傍から見ると少しミットモナイとも思える。 名作映画「カサブランカ」のハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンのように恋の結末が嫉妬を乗り越えた「粋な別れ」となっているのに見終わった時の印象はハッピーエンドなのであるからその作品の完成度とともに西欧人の恋の感性は大したものであるなあと感心する。 モチロン失楽園が作品として劣っているワケではないが・・・。 結論としては嫉妬と恋がとても深い関係があり、恋の成就が嫉妬の終わりとも言えないこともけれど、絶えず嫉妬心を刺激しておかないと恋も長続きしないところがあるように思える。 このあたりの工夫は社会的に固定的な男女関係、つまり結婚している男女の間にはヒョットして少しの不倫とかあやしい関係とかの刺激があって多少の嫉妬心があった方がお互いの恋心を確認し合って良いことかも知れない。 けれども嫉妬で愛は測れない。 本当の愛は絶対のもので不動であり、決意であるので、少しくらいの嫉妬で簡単に揺らぐはずはなく、嫉妬に狂って相手を問い詰めたり監視したり責めたりするならば、それはもう、到底愛とは呼べず、ただの性的欲望に基づいた独占欲の発露であろう・・・と思える。 ありがとうございました M田朋久 |