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■ ハラスメント考 | 2011.10.14 |
「言葉を慎む」というのは断言を避けることであるらしい。 最近、何でも断定的・断言的な表情を使ったタイトルの本がノウハウ本を中心としてにぎにぎしく、新しく刊行されているようだ。 「セクハラ」という言葉も今や職場では堂々とまかり通る外来語系日本語略語としてはかなりポピュラーなものになって職場を中心に世の中を流通している。 「差別語」と同じように、この「セクハラ」という言葉も色々な場面で一部の人々を結構苦しめているような気がする。 世の中は新しい言葉によってドンドン窮屈になっていくものなのであろうか。 交通事情も、教育事情も、医療事情もありとあらゆる職場で何かとこの言葉によって動かされ、縛りつけられて何だかとてもヤリにくくなったような気がする。 「昔はのどかで良かったなぁ〜」と時々思う・・・今日この頃である。 セクハラ、即ち「セクシャルハラスメント」も実のところ受けた側の解釈の問題が一番と思えるような事例もあって、同じ言葉でも中には単なる受けた本人の勘違いみたいなものがあって、少し滑稽に思える時がある。 或る人の同じ行為、態度、応接であっても相手によっては、「何ともない」か「キモチイイ」、「ウレシイ」から「ショックだった」、「とても嫌だった」とさまざまである。 このような理由からとてもセクハラの定義づけ、「ルール決め」はできない筈なのに、最近でのキワメツケは「キミは綺麗だネ」と言ってもセクハラになるそうである。 確かに「キレイだネ」は誘惑的ではあるし、言った側にそういう意図が無いワケではないだろうが、そんな男と女のヤリトリを通して人間関係の本質を学んでいくものなのではないかと思うのだけど・・。 これって「ただの誉め言葉じゃ〜ん」なんて言いたくなるが、人には色々な受けとり方があるので、そんな程度ことまで「配慮」を要求する権利とか義務とかが社会に必要なのであろうかと、少し疑問である。 「パワハラ」(パワーハラスメント)ですら傍から聞いていると、その受けた人物がとても上司から期待されていてプライベートでも何でもかんでも呼び出され、酒を飲まされたりして、とても嫌になるというような話を聞いた時に、ひと昔前であったら上司に可愛がってもらっている状態と思えるのに、呼び出された部下の方が少しでも苦痛と感じたら、「パワハラ」とも呼べるのであろうけれど、何だか少し忍耐がなくて情けない気もする。 ・誉め言葉がセクハラで・・・? ・期待がパワハラ? 大胆にくくってしまうとそのような見方がセクハラ・パワハラの「加害者」からの声で聞こえてくるようである。 試しにハラスメントを「嫌がらせ」と定義するならば、される側とする側で、特にする側の意図や優しさや思いやりや配慮が多少でも斟酌されるならば、される側が一方的に、イヤあれは「私は苦痛でした」か「嫌でした」とか「嫌がらせと感じました」と一方的に主張されたら、電車内の痴漢問題と同じで“加害者”の犯意とか意図がどこかへ消し飛んでしまっている・・・ように思える。 図らずも・・・なんていう素朴な人間だって数多くいる筈である。 これは最近の一般の人々に蔓延する被害者意識の増大、被害者になりたがる傾向のあらわれではないだろうか。 これらの被害者の人々の特徴というのは、ひとつは「自惚れ」のような感覚ではないだろうか。 つまり考え方が自分中心なのである。 上司や同僚や会社や組織や社会から見た自分というものが良く見えていず、周囲の人はみんな自分に関心がある筈だ、大切にされるべきだみたいな感覚、自分に関心を寄せるべきである感覚であるなぁ・・・と思える。 夜の店の中で、滅多に行かない高級クラブなど仕方なく友人の流れに乗って行ってみると、普通最悪の気分を味あわされる。 美しく着飾った若い女性がいっぱいおられて、このようなお店ではどうでも良い無駄話・世間話をする羽目になるのであるが、これが全く面白くない。これは多分田舎のせいで、銀座の高級クラブなんかでは良く教育ができていて、そんなことはないんであろうけれども、何しろ人生経験が浅い上に、失礼ながら知識も教養もない方が多く、物凄く苦労した方のお話ですらどこかしら前夫や彼氏や友人や子供の愚痴や不平不満だったりしてさらに気が滅入ってしまう。 その上に自分は若くて綺麗だからお客さんである我々(オジさんたち)は自分たちを好きになる筈で、私たちは大事にされるべき・・・であるというひとつの「思い込み」を持たされているようで、いささか滑稽であったりする。 そういう店に出入りする男どもが「若い娘好み」だったりすると闇雲にチヤホヤしたり、何くれとなく贈り物をしたりするのだから、下心満々の見るからにスケベオヤジだったりして、それらの人々を数多く相手していてそうなったのであろうので、当然とも思うけれど、或る意味喜劇的であり、俗物丸出しで男として誠に情けない。 筆者の場合、知的で苦労人で深い教養人とまでいかなくても浅薄な自惚れなど微塵も感じさせない上品な成熟した女性を好むので、そのようなただ「若いだけ」とか「美人だけ」だとか女性にはあまり興味が湧かない。であるので、これらの人々に冗談でもチョッカイを出したり、チョットした誉め言葉などかけただけで本気にされるかも知れないと・・・ただ沈黙し、静かに観察するにとどめている。勿論中には人生上の苦労を散々味わってとても奥深く知性豊かなとても素敵な女性がおられるが、それは大概所謂典型的な美人ではなく、たとえ目の覚めるような美人であっても、何かしらの強烈なコンプレックスや心の痛みを胸の内を持たれている方が殆んどである。 今は少子化で、親から蝶よ花よと大事にされる為か、確かに昔よりキレイな若い子が増えたような気もするが、それと同時にやや自惚れの強い娘さんも多くなった印象がある。 我がクリニックでも軽いセクハラ騒動があった。 全く筆者の好みでないそれこそ若くてキレイなナースに対して普段から普段から習慣的に誉めそやして働いてもらっていたら、自分の名刺の顔写真用にセルフで自分のポートレートを携帯電話で撮っていたら、その「カシャッ」という大きな音が彼女をして自分を盗撮していたのではないかと勘違いされて、その筋に「セクハラだぁ」と上申されたことがあって、唖然としてしまったのであるけれど、このようにセクハラ問題の増加の根底には多少自惚れ的で自己中心的なパーソナリティーが存するのではないかと考えるのである。 モチロン昔の映画のようにやたらと無闇に美しい女性への性的アプローチを強引に仕掛けて、誠にケシカラン輩もいたりすることもあろうけれど、そのようなケースですらその被害者の女性が今のようにセクハラとかパワハラとの言葉が無かった時代なので、泣き寝入りをしたり可哀そうな目にあったりする物語があるけれども、このような場合にはその女性は本当に健気で美しく、本当の美人だったりして、筆者としてはそのような女性ならば本当に好きになってしまうかも知れない。 少なくともささいなことでやれセクハラだ、パワハラだとわめき立てる人々とはあまり親密なお付き合いはしたくないし、マチガッテモ好きになることなど決してあり得ないと思える。 昨今は芸能人でもこのようなタイプの女性が時々おられて、見た目も滑稽であるし、ご本人もしないで良い無用なご苦労をなさっている・・・ような気がする。 今はいじめ問題もあったりして、気が引けるが、ある方向から見ると多少の嫌がらせに耐えてこそ美しい花が咲くものではないだろうか。 昔からの童話や寓話は、このようなセクハラ、パワハラ話のオンパレードである。 ありがとうございました M田朋久 |