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■ 断酒 | 2011. 9.29 |
1ヶ月あまりコラムを書いていない。 これは言い訳ではあるけれど、お酒を断っているからではないかと思う。 実はこれまでのコラムの殆んどは、アルコールの力を少々いただいてホロ酔い加減のアタマで書かれたものである。 アルコールを飲むと普通お喋りになる、饒舌になる。 その時の勢いで、気楽に筆をすべらせていたのだ。 多分。 素面だと正直あまり筆が進まない。 言葉が思い浮かばないのだ。 スルピリド(ドグマチール)という抗うつ剤を飲むと少し多弁になるので、この薬物の力を借りて今これを書いている。 断酒の話に戻ろう。 断酒の第一の理由は「願掛け」である。 息子の大学入学を祈願して「茶断ち」ならぬ「酒断ち」を子供自身にメールで公言してしまったものだから仕方がない。 「願をかける」というのは神様との約束、自分との約束であるからコッソリ飲むとか、隠れて飲むとか、誰も見ていないから飲む・・・というワケにはいかない。 実は大変重い約束なのである。 それだけ息子のコトを思っている・・・ということらしい。 子供のために「祈る」というのは親として当然という感覚である。 それは自身の母親が常にソレをしていたので自然に倣っている。 そんな按配である。 お酒をやめて良かったのは24時間オールタイムで仕事ができる、クルマの運転、バイクの運転ができることである。 こちらの地元では、タクシーの初乗りがなんと270円。代行運転とか利用するのも何と無く気がひけるし、だいいち面倒くさい。 ついでに自転車も盗まれて、「歩き」も嫌だし、とにかくクルマだ。交通手段は・・・。 飲酒運転は今や重大犯罪である。それらからの精神的解放に最も単純な解決法としても断酒は有益である。 つまり筆者にとっては、お酒よりもクルマやバイクやそれらの運転許可証の方がはるかに大切ということである。 何か測り知れない自由を獲得した気がする。 その上、短時間の睡眠でも翌日の仕事があまり辛くない。 何だかカラダが軽くなった感覚がある。 ただし、ストレスは溜まる。 何だか心の鬱気が体内に沈殿するような気がする。 仕事のオンとオフの境い目が無くなり、所謂ストレス解消効果を期待する「食事」がどこか殺風景である。 健康の為には少し飲んだ方が良いような気がする。 温かいお風呂と晩酌と称する夕餉のアルコールは一日の疲れを自然に取り去ってくれそうで、患者さんや友人や親せきや、とにかく周囲の人々には禁酒・断酒を勧めていない。 モチロン禁酒・断酒が必要な人には厳格に勧告するけれど、滅多にそれを実行する人はおられない。 みんな「自分の人生だ」好きに生きて行きたい筈であるから、色々医学的根拠を述べ立ててそれぞれの飲食の習慣を無理に矯正しないようにしている。ただし提案はさせていただく。 そもそも禁酒・断酒が必ずしも健康や人生に良いとも思えないし、自ら実行して思うのは素晴らしい自由を得たものの、温かい、とろけるような家族の団欒を捨てたような・・・そんな心淋しいものがある。 そしてひたすら孤独である。 夜の店に行ってもノンアルコールビールかウーロン茶(何故かふつうのお茶は出て来ない。多分飲みすぎると気分が悪くなるのであろう)。 カラオケや談笑を楽しめないワケではないけれど、まるで異邦人・異教徒になった気分である。 ついでに筆者のやや「変人っぽい」ところを少し披露すると、 ・あまり歩いたり走ったりしない ・年中シャワーは浴びるけれど浴槽には滅多に入らない ・洗髪は理容室でしかしない ・誰かと会食することを好まない ・朝食を摂らない ・時々昼食も食べない これは仕事にしろ、遊びにしろ、気分が快適でよろしい ・テレビを観ない ・肉を食べない ・水とかお湯とか水分をやたらに摂取し、トイレに何回も行く ・1日に何回も、30分から1時間の仮眠を取る これらは或るひとつの目的でなされている。 それは「快適な気分で生きている」為である。 ネガティブなことを考えたり、口走ったりしないことと同様にかなりの効果は得られる・・・と思う。 けれどもあくまで趣味嗜好、体質その他種々の人生観、生活観にかかわる問題なので、人には勧めていない。 酒は人類の文化の重要な構成要素である。 少量のアルコールは人間のコミュニケーションを円滑にする。 繰り返しますが、何の理由も無く禁酒や断酒をすることが人生や健康に良いとは体験からもあまり良いとは思えない。 ・・・これが約1ヶ月あまりの断酒経験途中にある筆者の正直な実感である。 ありがとうございました M田朋久 |