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■ 孤独感について | 2011. 8.21 |
人間が何かにつけしばしば陥る感覚である。 好きな人がふり向いてくれない時。 周囲の人から見捨てられた、蔑まれていると感じた時。 愛する人を亡くした時。 人を信じられなくなった時。 人に裏切られた時。 将来に対する不安のある時。 自分だけが・・・なんて何らかの不幸を感じた時。 死病を患い、余命いくばくもないと宣告された時・・・等々・・・。 多くの人の抱くネガティブな感情の行き着く先は、事の大小・軽重を問わずこの激しい孤独感ではないだろうか。 深い孤独感に襲われた時、人との交流を絶ち「ひきこもる」人もあれば、さまざまな社交や人付き合いに身を投じた趣味事や酒や薬物に溺れたりする人もいるかも知れない。 筆者の場合、この孤独感を感じた時に選ぶ行動というのは、まず独居であり、沈思であり、黙考である。 とにかくあれこれと考えを巡らす。 酒や薬物などを使わずに・・・。 そうして時に、深夜オートバイを駆り、クルマをとばし、夜の海や星空や月をめざして山道を彷徨う。 ヘトヘトになり、最終的に家に帰り、再び自分と向き合うことになる。 何かしらの生命エネルギーを消耗した心と体は精神を特定の方向に向かわせてくれる気がする。 そうしてそれは激しい性欲であったり、人の愛情への渇望であったりする。 それらのエネルギーを燃やした後に、朝起きて少しの本を読み、仕事をしながら思い至るのであるが、この孤独感の解決法というのがいかにもありきたりであるのだ。 「愛すること」。 人を愛し、自分を愛し、人生を愛し、すべての人々や事柄を愛すること・・・。 「ゆるすこと」と言い換えても良い。 人間の孤独感は殆んどは誤った自己認識に根ざしている・・・そうである。 自らが何者であるかを深考する時、それは水と空気と食物等の自然界の物質を染み込ませた肉体と意識と呼んでも良い「魂」の結合体であることに気付かされる。 そうして丁度呼吸が外界(自然・環境)と内界(肉体)をつなぐ生命の連結装置であるように、愛もまた自分と他者の間に満々と横たわる静穏な大海のように私達の精神をやさしく包んでいるのだ。 それは神の愛かも知れず、母や父の愛かも知れず、それぞれの愛する人の魂かも知れない。 誠につきなみで陳腐な表現になってしまうが、ごくありていに言えば重苦しい孤独感からの脱出法の最良で唯一のものは「愛すること」「ゆるすこと」に他ならないことに気づくと、心が急速にやすらぎ「楽になる」・・・筈である。 重いと緞帳のような漆黒のカーテンを心の周囲に吊るし、冬の冷え冷えとした商店街の店々の灰色のシャッターのように誰も見向きもされず、立ち入らせず頑なに閉ざされた心ほど気の毒なものはない・・・。 けれども、それらの精神の状態に客観的に気づく人は少なく、周囲の人々の多くの愛のシャワーを浴びても、岩石のように固く心を閉ざしたまま一生を終える人もいて誠に痛ましい。 すべての生命が「呼吸」をするように、ただ「愛する」「ゆるす」こと、たとえば息を吐き出すようにリラックスして実行すれば「愛される」「ゆるされる」という喜びも、吐いた息が新鮮な酸素を多く含んだおいしい空気のように身内に行きわたり、素晴らしい「愛のよろこび」を得られるにちがいない・・・と思うのだが・・・。 ありがとうございました M田朋久 |