コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 忘恩の者たちへ2011. 8. 9

普通にしていて人間というものは、油断していると殆んどこの忘恩の輩に成り下がるようだ。

「恩着せがましい」人間になって人に嫌われたくないし、自己嫌悪に悩むのも嫌なので、売った恩については語りたくないが、あまりにも自らの周辺に「恩を仇で返す」ような者たちが群がるようなので、自分のどこにそれらの行動や言動や思いを惹起させる弱点というか、或る意味「魅力」みたいなものが存するのか少し考えてみた。

ただ単に「忘れっぽい」というのならまだ許せるけれど、「仇で返された」ら時々には怒らないワケにも行くまい。

忘恩の人の特徴というものを考えてみると、ひとつには小さなプライドとその心底に秘されたコンプレックスや劣等感であるにちがいない。
そうしてもうひとつは貪欲さである。
「もっと取れるのではないか」という浅ましい心根の持ち主が、この忘恩の者たちの特徴的な人格である・・・と思える。

貪欲さとコンプレックスを刺激させる何かを自分が持っているにちがいない。

時々、近しい人に言われることのひとつに「人が欲しいというものを全て持っている」ように見えるというものがあって、これは自分としてはいかにも心外であるけれども確かに「満ち足りている」とは言える。

「あ〜なりたい」「こうなりたい」とは思わないし、「あれが欲しい」「これが欲しい」ということもない。
つまり、現世的には結構「恵まれた人間」ということである。
これは確かにそうとも言えるし、とても有難いことではあるけれども、それと同時にその恩恵に相応わしい高まいな人格の人間に見えない・・・。
つまり、幼稚で無知で小賢しい、愚かで騙しやすい人間と見られているかも知れないし、或る面で自分自身も「忘恩の人」で、その投影なのかも知れない。

平たく言えば、嫉妬を買いやすいとも言える。
いずれにしても自分では忘恩の人には決してならじと心に決めているので、時間を見つけて書くハガキや手紙は殆んど御礼のそれであるし、電話やさまざまの接遇や接待においての応接も、感謝の言葉を意識して添えるようにしている。
ただこれも「つもり」であって、まだまだ足りないのかも知れない。

何よりも深い恩愛は筆者の両親へのそれであるので、高いお金を払ってバカ息子を大学に入れてくれて何とか一人前の社会人にしてくれた父母への感謝の心は、自らの全存在にみちているので、毎日の墓参り、毎週の神社参り(筆者の父の実家は宮司である)、職員の人々、患者さんたちへの感謝も毎日言葉にするようにしている。
また、態度や物腰にも本当の敬する心、愛する心で丁重さ丁寧さを心掛けるようにしている。

それでも世話になった人への恩を忘れるので、誰かれかまわず御礼の言葉を述べたり書いたり日常的にしているが、この忘恩の者たちへの対応にはいつも悩まされる。

いったいどう接して良いか分からないし、正義感の顧問弁護士の先生は筆者の替わりに怒ったり戦ったりしてくれるが、真実はそんな気も何故かしらあまり無い。
ただただ同情するだけである。

人やモノや全てのものへの「感謝する」という心の姿勢がいかに心持ちの良いものか知らないという意味で・・・。
また、その貪欲さと劣等感が自らを苦しめていることに気づいていないという意味で・・・。

多少「上から目線」的な表現になりましたが、正直な感想である。

ありがとうございました
M田朋久


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