[戻る] |
■ 信用 | 2011. 7.27 |
「『自分を信じろ』という人間を信用してはイケナイ」。 これはマフィア本からの知識であるが、実際にこの言葉を筆者に口走った人物は、所謂ペテン師・騙し屋であった。 そもそも本当に信用・信頼に足る人物は「自分の事を信じろ」という言葉を発する必要は無い。 言葉でなく「結果」で「真実」を示すからだ。 筆者も30年あまりの医者の臨床経験で、患者さんに自分のことを信じろと言ったことは一度も無い。 或る意味、これ程不誠実な言葉は無いように思える。 医療においての医師−患者関係は人間としての信頼関係ベースとなるが、担当医師を信用するか否かは患者さんの判断に委ねねばならない。 決して信用を強要する言葉を軽率に口にするべきではない。 医療活動において「絶対」を確約することはできないからだ。 もしかして「先生を信じていいですか?」と患者さんからすがりつくように尋ねられても、ただちに首肯することは生涯あるまい。 どのように回答するか、ケースバイケースではあるけれども、概ね「保証はできません」とか「100%の信用に応える自信はない」と逃げるに違いない。 一見卑怯に思えるやりとりと思われるが、信じるとか信じられるとかの判断材料を提供することはできても、実際に断定的に「治ります」とクライアントに告げたとしても「信用しなさい」と表現するのとは性質が違うものである。 その人物が信用できるか否か・・・。 この問題は時に事案によっては重大な決断に関わってくるが、「信用」という言葉を聞いたら直ちに「不信用・不信頼」と判断して良いかも知れない。 納得できるクリーンな説得が不調に終わった時、もしくは「騙し」がうまく行っていて、騙す側が多少油断している時によく発せられる言葉であるので、人物判定のみならず色々な場面で応用できるアイデアである。 付け加えるならば、同じマフィアの金言で「心の内を人に話してはイケナイ」というのがあるが、これも良好な人間関係において割と知られていないが重要な真実を含んでいる。 それは人間の「心の内」をいくら人に語っても、本当に共感してもらえることは殆んどなく、話す相手が心理カウンセラーであっても、ただ共感・傾聴という「作業」をしているだけであって、真の意味の共感とは違うものであろうし、ことさらに「共感すべき」「傾聴すべき」と考えているならばそれは職業的な立場上の「フリ」に過ぎないのだ。 こと「カウンセリング」という或る特別な設定であっても、真実は共感にあまり意味は無く「心の内」を話す側が話している間に自己解決していっているものなのであって、カウンセラーの特別に有益な助言であっても、それは単なる「参考意見」に過ぎない。 これが一般の日常生活での会話であれば「ココだけの話よ」とか「聞いて、聞いて」と言って「そうよ、そうよ」と薄っぺらい共感など得て満足するより、自分の心の内をよく観察し、静かに心底に沈潜し自省・反省する方が良い。 もしかして「心の内」を何かしら邪悪な心の持ち主に知られてしまったならば、何か悪事・悪行の材料にされるのがオチである。 充分注意したい問題である。 ただし、自己弁護に聞こえるかも知れないが、医者の前では絶対的な守秘義務遵守を前提にではあるが、クライアント(患者さん)の「心の内」は大いに治癒上の資源・材料になり得るので、できる限り話をしておいた方が良い。 これは弁護士と依頼人の間柄についても言えることである。 こう考えると医師−患者関係、弁護士−依頼人の関係がいかに特別なものかが分かる事柄である。 ありがとうございました M田朋久 |