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■ 裁判沙汰 | 2011. 6.28 |
「裁判」というものは、裁判官の前で行われる。 言うならば喧嘩のようなものであるらしい。 民事と刑事があって、民事は主にお金にまつわる事案が殆んどで、民間人同士で争い、行司というかジャッジメント(審判)するのは裁判官であるが、相方の利益が折り合うなら和解とか示談とかを勧められ決着することも多い。 刑事裁判の方は司法、つまり法の番人である検事や警察と争うのであるが、被害者の届けの内容によってはモノの本によると殆んど勝ち目がないらしい。 つまり被害届を受理したら有罪になってしまうケースが多いと聞く。 チョット怖い話である。 最近では電車内などの痴漢の問題が一時話題になったが、「痴漢」だと女性に糾弾されたなら半ば自動的にレッキとした軽犯罪者になってしまうらしいので、男性の乗客は両手を上に挙げて吊革に掴まるか、金属製の横棒を握るかして自分の両手の潔白性を証明しながら乗車しておかなければ冤罪も覚悟しなければならないそうである。 何ともはや・・・。 このあたりの問題を「シャル・ウィ・ダンス」を撮った周防正行監督「それでもやっていない」というタイトルの映画で披露してみせたが、社会的にも興行的にも一般からは無視されてしまった。 刑事の場合、出演者が被告・原告に検察官が加わり、主に法の下刑罰が下される。 モチロン、有罪が確定した場合であるが、今は裁判員制度も始まり、この刑罰の程度や有罪・無罪の判断を或る程度一般人に委ねられることになったので、冤罪事件も減少するかも知れない。 それでも裁判官の裁量の度合いは今でもそれ程下がったワケではないらしい。 最高裁判所というところも特殊な事案で社会的に問題と思われる事件について裁判が行われるが、判事以外にも学識経験者とか有識者とかが判決に関わられるらしいが、だからと言って、本当に信頼できるバランスの取れた円満な人格の人々によって裁かれるとは限らない。 人が人を裁くことは本当に可能なのであろうか。 法律的にはそのようなシステムであっても、そこに必ずアヤマチが混じるのではないかといつも危惧する。 何せ人間だもの・・・。 ところで私事であるが、色々な裁判沙汰に巻き込まれ、○○法律事務所とか○○裁判所とかから何やら曲々しい文書が舞い込むようになった。 心身の健康に良くないし、診療の邪魔になって診断や治療過誤になってはそれこそオオゴトなので、ほとんど筆者の手を素通りして顧問弁護士さんのところへ届けられるが、当事者としては腹の立つこともあり、その怒りを東大卒の優秀な正義漢然とした立派な弁護士先生が筆者の替わりに怒ってくれてかなりの瘤飲を下げてもらっているのでとても有難い。 つけ加えるならば腕の良い正義肌で怜悧の弁護士さんというものがとても有難いものでることを知り、こちらからみると悪人たちに囲まれて四面楚歌の状態であった筆者個人も、関わっている医療法人もキッチリと守ってもらって、神様のように頼もしく有難い。 生命を救ってくれたお医者さんみたいな存在が社会における優秀有能な弁護士さんであるのだ。 多分・・・。 中には不徳悪徳な弁護士さんもおられるらしいが、件の先生に言わせるとごく少数であるとお聞きした。 断っておくが筆者が民事的にも刑事的にも不正義とか悪を行ったという覚えは全く無く、悪人達の側が図々しくも厚かましくもドンドン筆者に対して訴えを起こしているだけで、こちらとしては一生懸命防戦(反訴)をしているだけである。 訴訟沙汰が運気を落とすことは昔から聞いていたので、何としても人と争うことを避けてきたワケであるが、売られた喧嘩もタマには買わねばならないと、少し張り切っているところである。 明治維新、関東大震災に尽力した偉人、渋沢栄一も「立身も争いを辞せぬ覚悟のあるところよりくるものである」と述べている。 別に立身出世などどうでも良いけれど、身に降りかかる「火の粉」は払わねばならない。 それをふりかけているのがまぎれもない悪漢悪人であるならば尚更のことである。 事の顛末はあらためて一筆したいが、身に覚えが全くないので、割に堂々としているけれども、多少愚かであった・・・。 つまり管理者・経営者として怠慢であったことは否めないし、医者仕事にかまけて不得意な経理とか法律とかに疎く、「倫理観とか良識常識とかだけで社会を渡っていける」と無邪気に信じ込んでいた筆者自身の「甘さ」が殆んど確定的な原因であるので、全く「自分は悪くない」と公言・断言することもできない。 「優しさ」と同じように「甘さ」も時には結果的に不徳になるのだ。 そのことをしみじみと感じさせたこの度の裁判沙汰のオンパレードである。 ヤレヤレ。 それにしても早く終わって欲しいものだ。 ありがとうござしました M田朋久 |