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■ ヘルメット | 2011. 6.22 |
新しいヘルメットを買った。 今まで使っていたヘルメットはもう10年選手である。 中がくたびれて、スポンジやら金具が着脱の度にはずれて不便きわまりない。 とうとう思い切って、雨の夜にクルマを飛ばして「南海部品」という名のバイク用品の店で、迷わずに最新型の最高級品を手に入れた。 SHOEI]Twelve。 5万6千円。 結構な値段であるが、生命には変えられない。大切なアタマを守ってくれる頼もしい装着品で、その意味では高級メガネよりも安い感覚である。 そのおろし立てのヘルメットの装着感を試してみようと、梅雨の晴れ間の土曜日の夜に大望の短いソロツーリングに出かけたところ、そのヘルメットの与えてくれる素晴らしい爽快感、心とろかす素敵な感覚・快適さは新しいバイクに乗り換えたほどのモノであった。 もっと早く買い換えればよかった。 視界を確保する風防のシールドは少しも曇らず、ヘルメットの中を通り抜ける風は頭頂部や顔面を涼やかに冷やし、まるでエアコンの効いた高級車の室内のようであった。 考えてみればヘルメットはクルマで言えばキャビンとかコクピットとかと同じようなものである。 モチロン、メーターもスイッチも操作するものは殆んど無いものの、視界を守り、何よりも五感感覚の中でも最も鋭敏な視覚・聴覚・頭部の接触感を創出してくれるものである。 身体感覚はともかくとして、オートバイをコントロールするセンターであるアタマが詰め込まれている強化プラスチックのこの球形の代物は、明るいシルバーメタリックに輝き、その美しいエアロデザインで、棚に飾って置いておくだけでも筆者を果てしなく魅了する。 その意味でバイク本体の次に重要な身体装備と言える。 近頃は「バイク病」がますます「悪化」して、インターネットで「雨」でないことを確認すると、あらゆる用事をキャンセルしてオートバイに乗ろうとしている自分の心の予定を意識する。 そもそも「何故、今自分はバイクに乗るのか」。 この問いに答えるべく自分の心を探ってみることにしよう。 オートバイは少年時代からの夢である。 16才の時に初めてまたがった350ccの2ストロークYAMAHAのマシンは、今でもありありとその感覚を脳裏によみがえらせてくれる程で、鮮烈であった。 夏とは言えまだ日の明けやらぬ早暁の午前4:30。 いそいそと鮮やかな白と紫色に塗られた友人のオートバイにまたがり、それこそ一日中街路や山中を走り回り、疲れを知らず「単車を駆る」というヨロコビに浸り切っていたのを思い出す。 あの頃から40年を経た今でも、その頃の快楽は少しも衰えを見せない・・・。 それが不思議である。 意識不明で救急病院に搬送されるほどのバイクの自損事故を起こし、かわりにクルマを買い与えられ、1年間に6万Kmを走破する激しい乗り方をしていても本当に満ち足りることは無かったのだろうか・・・。 30才を過ぎ、自分で働き収入を得、自由になるお金を手にした時に、真っ先に手に入れたのが400ccのオートバイ。 その白と青に輝く蛍光灯の下でプラモデルのようなキラキラとしたマシンを近所のバイク屋に買い置き、あらためて自動二輪の免許を取りに隣町まで通った。 バイクを15年近くも我慢したのだ。 そうして乗るオートバイの味は又格別であった。 イギリスやドイツに行くと、初老・中老の男女が連なってオートバイに乗っていく。 とてもカッコヨク、シブクキマッている。 普通の人々にとって退職後にすることなど何も無いのだ。 パブでビールをあおるか、日中はオートバイでも乗る。 後は恐らくカード遊びかギャンブル。 何とも創造力の無い男の遊びではある。 それらの男遊び(最近では女性も)のひとつとして自分はただオートバイを選択しているだけなのかも知れない。 「バイクは恋人」。 周囲の人は誰しも筆者のことを断じている。 自他ともに認める、幾分危険な趣味である。 新しい銀色のヘルメットはそれをさらに加速させてくれそうだ。 梅雨の長雨も何のその。 ライダージャケットの上にレインパーカーをはおり、レインパンツを穿き、夕闇に染まる仲夏の雨の中に飛び出して行く。 自分はまるで無邪気に砂場で遊ぶ幼児そのものである。 自らの愚かさを心の中で打ち払いながら空腹と疲労を即効で癒やしてくれる自販機の缶コーヒーを目指して雨に濡れた国道を北にむかってひた走る。 暗い雨林に囲まれた山川を抜けると「バイクよ、あれが街の灯だ」なんて感じで唐突に山ひだから現れる隣町の小さな光の薄明かりに身内のアドレナリンが少し濃度を下げるのを感じる。 ヘルメットの中に詰め込まれた宇宙は歓喜に打ち震え、心臓は鼓動を静めた。 ありがとうございました M田朋久 |