コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 希望の光2011. 6.21

社会全体、国民の興味・関心が3.11大震災から少しずつ離れてしまって、日本全体が精神的には何だか元に戻った感がある。
いくらかの陰鬱さを含みつつ、元来の本質的楽天性と軽薄さが復元している・・・。

日本人に限らず、人は「忘れる力」というものを持っている。
そうしてそれは生きて行くのに便利であるし、大切なことでもある。

地震と津波の死者が3万人と聞いても、一年間の自殺者とほぼ同数。
それは一度に、一瞬に亡くなってしまったという悲劇であるにしても、それらの死にまつわる人々の個人としての思いは恐らく殆んど同じものであろう。
「喪失の痛み」
それが人間だけでなく「全て」であったとしたら、絶望イヤそれを超える自失・虚無であるかも知れない。
国家や全国民、全世界の援助を必要としているのも確かなのであろうし、また世界中に少なからぬ影響を及ぼしているのも事実なのである。

希望とか復興とかのカケ声も、当事者でないので何だか実感が湧かない。
人間は希望が無くても生きて行ける。
目の前の事をひとつひとつ処理していく。
それらの積み重ねが人生なのではないだろうか。

希望は無い方が気楽かも知れない。
何かを追いかけるのはひとつのストレスだ。
骨が折れるものだ。
希望という未来のビジョンとか目標とかであろうので、遠景の「坂の上の雲」を目指して歩くのであろうけれど、その一歩一歩はまぎれもなく足元をしっかりと見ていなければ、それこそ転んでしまう。
「看脚下」というではないか。
自暴自棄は悪で、希望は善と人々は思い込まされている・・・のではないだろうか。
「自暴自棄」とか「ヤケクソ」とか「ヒラキナオリ」とか「イケナイコト」なのであろうか。
正直なところ、それらの言葉には確かな「憧れ」も感じる・・・。
世界中で最も地震が頻発しているのが日本だそうである。
台風による風水害、土砂崩れ、鉄砲水、山津波。
今もまた梅雨時期の大雨に災害は「今そこにある危機」と、この地九州の山間部の人々を憂慮させているが、ごく日常的でありふれた四季の原風景でもある。

自然の猛威とその素晴らしい恵み。
恐ろしさと感謝と愛とが混在し、包含される自然そのものへの人々の一体感が日本人の心底にある潜在する大いなる確信なのではないだろうか。
自然との共存と同時に今は文明との共存、人も企業も国家も共生の道を探ろうとしている。

今は自然エネルギーへの転換を勧めよ・・・などと専門家は述べているが、もともと石油や石炭・天然ガスであっても大自然の創造物であるのだ。
鉱物エネルギーなどの「重い」エネルギーから、より人工的な原子力などの化学エネルギー、それらがより「軽い」光とか、風・水・アルコール・植物エネルギーへの転換が迫られているのが現在の人類の緊契の命題であるにちがいない。

「希望の光」そして「風」。
人類が地球全体をあらためて見まわす時に、たゆみない宇宙の営みと共にそこに産み出される素晴らしいエネルギーの恵みを感じ取ることができる・・・。
そしてそれを必ずや有効活用できる筈である・・・と信じたい。

ありがとうございました
M田朋久


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