コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 忘れたくないこと2011. 3.30

この大災害をきっかけに、人々の心がいくらかエゴイスティックで個人的で冷え冷えとした他者への無関心・疎外感から他者へのいたわり・暖かく心のこもった関心へとシフトさせられているように思える。

「人は一人では生きていけない」
「他者や社会からの支えで生きている」
このことは、この災害以前にはコンビニエンスストアやスーパーで簡単に手に入る食べ物、水道からふんだんにあふれ出る水、当たり前のように供給されるガスや電気、仕事や友人知人、それらの普段意識できない社会的資源の恩恵を忘れ、
「自分は独りで生きている」
「自分は社会で孤立している」
というようなおごりと疎外感を感じながら生活していたのではないかと思える・・・。

それらの社会全体のムードが只の他人事ではなく、東北地方の災害の実態を映像でリアルに観て「助けなければならない」「助けよう」として今、日本人の心がひとつになっているように思える。

地震や津波などの自然災害は日本では昔から決して他人事では無く、ありふれた自然現象のひとつであるのだ。
それが幸福で平凡でおだやかな日常を一瞬で奪い去った自然の猛威。
誰にも怨み言や怒りをぶつけようもない。
それは人災でも戦争でも無いから・・・。

謂わば集団ホームレスのように避難所というきわめて不快適な居住空間に集められ、不自由で不衛生でプライバシーのない集団生活を余儀なくされ、それは自責的ではなく全く抵抗のできない、大自然の運行の中ではチョットした悪戯に近いものなのかも知れないが、その結果生じた人間の生活への爆発的・破壊的エネルギーにはあらためて驚嘆させられると同時に、何も無い平穏な日常の為に支えてくれている温暖で規則的で、慈愛に満ちた大自然の恩恵をいつも人間達は忘れていて、特に感激もせず過ごしている。
神の恵み、神の怒りを鎮める為の太古の昔から行なわれてきた神事・祭事への近頃の人々の不熱心・無関心という人間のおごりに対する冷厳な神の意かも知れないということを思う時、あらためて人間の傲慢さ・愚かさ・卑しさ、そしてその勇気・愛・互助の精神、さまざまな人間の心の反応に思いを致す時、神と人間が一体となった、言うならば自然多神教文化を持つ日本人の危機における秩序だった美しくも道義心にあふれた行動も極めて自然なものかも知れないと思える。

私達は決して孤立無援ではないのだ。
利害を越え、敵味方を問わず、世界中から発せられる励ましと慰めと応援のメッセージや暖かい物資・義援の志は我々人間が同じ星に住むまぎれもない同胞であることをあらためて気づかされてくれた。
・・・と同時に今回のような大変な災害でなくても、日常的に身近に存在している困っている人々、即ち病者・老者・子供達・ホームレスの人々等の弱者についてもう一度その境遇の困窮をその立場に立って思い出すべきなのではないだろうか。

自らを含め、今この時にも「人の助け」を必要としている人々は日常的に、ごく普通に世界中に存在しているのだ。

市場原理主義・経済至上主義の陰の中で、見捨てられ無視されている傾向にある人々へのもう一度あらためて暖かい慈愛の光を当てていく時なのではないだろうか。
テレビでは日本赤十字を中心に病院や介護施設が役場や役所などの公共的施設、そうして警察や消防・自衛隊、さらに有志の人々による民間ボランティア団体などの活動が頻繁に映し出される。

このことは私達の生活の安全安寧がそれらの人々の力によって支えられている。
そして民間企業のつくり出すあらゆるサービスや物資が殆んどすべて私達の生活の日常の糧であることに気づかされる。

有難いことである。
決して忘れたくない事実である。
ついつい当たり前のことと見過ごしているこのありふれたささやかで平凡な日常というものが、偉大な優しくも暖かい自然の法則性、規則性、穏やかさの中で営まれており、さらにまた多くの人々の真面目で着々とした活動によって産み出されたさまざまの公共のサービス、飲食糧、物資の恩恵を意識せずに載っていることを・・・。

忘れたくないことである。

宇宙のかなたから眺望すると私達はあきらかに「ひとつ」なのである。
水々しく美しい青々とした宇宙の中の宝石のようなパラダイスに生きているのだ。
そうしてその中で争いと平和を繰り返したから発展してきた文明文化。
これもまた宇宙、大自然の摂理なのであろう。
対立と融合、離散と集合、そして破壊と再構築もまた大自然と人間の社会法則なのである。

極東の小さな島国、かつては黄金の国、日出づる国、日本。
世界中に何か大切なメッセージを発信しているように思える。

愛する人を、愛されるものを一瞬のウチに押し流して奪い去った地震、そして津波。
それはとても恐ろしくもあり残酷でもあるのに、考えてみれば只の海水の大きな塊でしかないというのも事実である。
怒りや悲しみの矛先を向けようも無い。
これは或る意味悪いことではない。
責任の追及や原因探しをしないで未来への希望を見出だすこと、耐えること、お互いに助け合うことに意識を向けられるから・・・。

ありがとうございました
濱田朋久


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