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■ 死について | 2011. 2. 6 |
不吉な表題である。 普通の日本人の意識では特にそうであろう。 いつものように書店の文藝春秋の特集号で「この国で死ぬこと」。 文藝春秋の本体でも「弔辞」の特集があったりして何だか辛気臭い。 誰か編集者に死期の迫った人物がおられるのであろうか。 次々と繰り出されるテーマが死にまつわるものばかりである。 自殺者が相変わらずしみじみと増加している。 原因はうつ病が大半らしいが、正確な数字は不明である。 中でも普通のうつではなく双極性障害(躁うつ病)の自殺者が最も多く、意外なことに統合失調症(昔の精神分裂病)よりも多いらしい。 これはアメリカのデータであるので日本では少し異なるかも知れない。 一般的に悩んだ末に死に至る人の心の原因はやはり「病苦」が一番で、次は「生活苦」であるらしい。 人間は年を取るとこの両方が自然にやって来て、自然死(病死)に至る前に自殺してしまうというワケである。 先の見えない、生きる希望の無い暗い世相を反映してか高齢社会の当然の流れであるのか知らないが、葬儀屋さんが儲かるらしく、JAさんも進出して昔のガソリンスタンドのように雨後のタケノコさながら出店が盛んである。 死そのものは誰の身にも必ず訪れることであって、ごくごく平凡で身近な出来事であるのに、生きている健康な人間にとってはそれこそ人生の一大事であるのに集団として、また他人事として見れば人の死は映画の主人公の死などよりも心理的には遠い出来事である。 或る程度年を取って「いつ死んでも良い」などと事あるごとに口にする人がおられるが、真からそう思っているかというとそうとは限らず、周囲の案に反してそんなんでもキチンと生に恋着してイヤに生々しく「生きる」ことに汲々とされておられることが多い。 人は見かけや言っていることと本性は違うものだ。 生命の本来持っている性向として「生きたい」という欲求が身内から生じさしめているのであろうか。 生きることによって得られる快楽の深さがそうさせるのか・・・。 いずれにしても「生きていたい」という欲望もまた人間にとって極めて切実で自然な欲求であろうと思える。 筆者の場合、残念ながら死にたくない理由というのが、どこかのお偉い人と全く違って、自分の人生の使命を果たしたいとか、人類愛の為とか世の為人の為にこの人生を役立てたいなどというような高尚なものは微塵もなく、その時々に応じて自然に胸の内に生じてくるさまざまの衝動と欲望のままに生きていていかにも俗人的であるから、ただバイクに乗りたいとか僅かに残存する性欲を満たしてそれを楽しみたいとか、そんな程度のかなり低いレベルの動機で生きている。 日常生活のホンノささやかな喜びが生きる「よすが」になっていたりもする。 我ながら何となく情けないハナシである。 であるから高齢者の人が3度の食事が楽しみとか孫の顔を見るのが楽しみとか、グラウンドゴルフが楽しみと言うのが良く分かる。 であるので、人生が苦しみの連続で、それも地獄のような苦しみであったならば、簡単に「死」を選ぶような臆病で忍耐心の無い矮小な人間であると自分自身を見ている。 映画や何かでも、勇気も度胸もある気力体力も満々としているような男ではない。 ただ、その日その日を漠然と送っている、ごく普通の小市民的な人間である。 このようなタイプの人間に「死について考えよ」と言われて俄かに答えようがない。 けれども敢えてこの表題を取り上げたのは職業柄「死にたい」という若い患者さんに多く接し、またそのような人でなくても病死や老衰死、突然死などさまざまな死を看取ってきてあらためて死について考えをめぐらせても「人間って死ぬものなのだ」というような割りと切実でない他人事のような実感しかない出来事をあらためて少しく反省自省したいが 為である。 時々にフッと消えてしまうように周囲の人々の虚をついて自殺する若者や高齢者などもおられたりして、益々死について感情的にも理性的にも麻痺させられている風である。 悲しみの最大のものは「愛する人の死」であるけれども「悲しみ」という感情は人生の情緒的側面の、これまた中心的なものであるので、映画や小説や演劇のすべてに「人間の死」が描き込まれている。 即ち「死」を取り上げないで人生は語れないのである。 若い時に深い悲しみを知った人は或る意味幸いである。 人生というものを深く考える端緒を得ることができたからである。 若い時に愛する人を亡くした人「別れ」の悲しみを知った人も幸運と言えるかも知れない。 恐らく悲しみは「死の味」であるのだ。 その為に生まれた瞬間から刻々と死に向かって泣きながら生きている全ての人間にとってそこに甘い喜びも無意識に見出しているのだ。 そこに安楽とかやすらぎとかが存すると信じているからかも知れない。 その上日本人の心には自決・自死についての美学がある。 これは武士道の中心的な美意識であり、日本人全体の情緒的な傾向である。 忠義のために、或いは愛の為に死ぬ・・・というのが武士の死に方の究極の理想のカタチであるのだ。 武士の処刑の仕方でも切腹させられるというのは名誉なことなのだ。 つまり「自殺をさせる」というのが武士の情け、温情であるし、その処刑のされ方に名誉を与えると言う考え方は世界でもあまり類例の無いものなのではないだろうか。 主君への忠義の為に仇討ちを見事成し遂げ、その報いが集団切腹であるのに後世に武士の鑑として名を残した人物と言えば赤穂藩の家臣、大石内蔵助であろう。 まさに忠臣・内蔵助「忠臣蔵」である。 その人望と徳、リーダーシップ、勇気、戦略、智謀、温情と厳しさ、しずれも稀代の不世出の理想の武士の中の武士と人々から褒め称えられたている。 この殺伐とした現代の日本人の心を捉えて離さないというのが不思議である。 敗戦後は上演を禁じられた物語「忠臣蔵」も国民の意識からその仇討ち・復讐心を削ぐ為にとった占領軍(米国)の人心収攬の為の施策であったが、日本人に強い復讐心が強くあるとも思えない。 米国への仇討ちがスジ違いであることは賢明な多くの日本人の良識で正しく判断しているのだ。 私怨と公怨を上手に整理しているのであるから、日本人もたいしたものである。 原子爆弾を県庁所在地に2個落とされ、都市部の無差別絨毯爆撃などという極めて非人道的で野蛮な行為をした国や人々に対して少しも恨みつらみを持っていないというのはなんという寛容さ、おひとよし、忘れっぽさであろうか。 或いは米国による日本人の洗脳が効果あったのであるからか。 映画「硫黄島からの手紙」で日本国から勲章を貰ったクリント・イーストウッド監督も日本人の死生観の中の、この武士道的・自己犠牲的自死を讃えるような次作「グラン・トリノ」で描いていて、この日本人の感性というものは外国人でもよく分かっているのだなぁと思える。 「最後の忠臣蔵」という近々の公開作品も外国人、それも西洋人の製作者で撮られたものである。 武士道と愛と死と忠義、名誉というものを一気に見せてくれる佳作である。 武士道についての知識と感性を得たいなら必見の作品である。 いつものようにドンドン話がそれていくが、自らの命が終わること、現世での自分の時間が絶対的に途絶えることを「死」と呼ぶが、命を何かの為に捧げるという思想は「犠牲(いけにえ)」のような他殺死もあるけれども自らの命を捧げるという武士道の思想、日本人のすべての人々、あるいは世界中の人の心の底にあまねく存すると仮定すれば、この命の一刻一秒を世のため人の為に使い切って死ぬという風に心から考えることができれば、生きることそのものがより輝きを増し、人々への明るい灯明になりはしないであろうか。 その生き方で周囲の人々を明るく照らした或る人物の死と自らの生と死を思う時あらためて胸中に沸き起こった「死」についての随想である。 ただし、自分の死が保険金を生むというので、死を選ぶというのは一見自己犠牲的で美しく見えるが、それは自分の人生よりも金銭のほうが価値があるというような大きな錯誤、それこそ「心の貧しさ」の典型例と思える。 ありがとうございました 濱田朋久 |