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■ デパート | 2011. 1.19 |
戦前より地方の商店街と一緒に日本の消費文化の中心的創造者となって来た特徴的な存在である。 日本語で百貨店。 つまり何でも屋であるけれど、今やこれは全国チェーンのドラッグストアや大駐車場を備えたホームセンターやドラッグストアやディスカウントショップや、それらの進化した安売りの郊外型大型店舗に押されてしまい「百貨」という意味では完全に凌駕され、取って代わられた感がある。 所謂デパートと言うと、繁華街・都市部の中心地にあって高級品専門のビル店舗というひとつの形式を固く守りつづけ、やっとのことで命脈を保っている・・・というより、百貨のお店の差別化で棲み分けができているようである。 売り上げについては年々下がりつづけていたが、ここ1〜2年少し持ち直したと聞いている。 以前に青年会議所というところに所属していた時、つまり30代の時に地元の百貨店の社長さんとの懇談会があって、生意気にも「これからは通販の時代になると思いますが、どのような対策を取られますか?」と尋ねたところ、少しムッとされて「手を出さない」とキッパリ言われた。 その後は数年でそのデパートは大阪の大手に買収されたが、何らかの手を打たないと潰れてしまうのではないかと余計な心配をしながら正月早々に百貨店の「視察」に行ってみた。 デパート巡りは脳の刺激にも良いし、社会の動向、ファッションの行方を知るのに最適と思い、重い腰を上げて出かけたところ、お正月の第1週の為か割りに賑わっている。 商品と言えばディスカウントショップや古着屋の平均10倍から20倍の正札が堂々と付けてあって、それでも皆さん一生懸命買っておられる。 出入りしているお客さんもブランド品のバッグを提げて、妙にバランスの悪い格好をした、特に女性が得意げに闊歩しておられたが、安売り店の客層のジャージーやフリース姿のようにみすぼらしくないのは良いものの、素敵な女性とかカッコイイ男性とかには老若男女一人も出会わなかった。 田舎のせいもあるであろうが、こちら日本ではテレビの影響かイギリス人のようにカッコイイ男性とか、北ヨーロッパの女性のように地味な衣装の割りには奇妙に見栄えの良い人にもついに出くわすことができず、美的に心地よいモノを何も得ることができずに帰って来てしまった(モノという表現は心も感覚もあらゆるすべてという意味である)。 最近はデパートに行っても何も欲しい物は無く、何だか悲しくなってしまう。 それこそ何も無いのである。 昔はネクタイくらいは良い物があったように思えたが、率直に言ってそれも無い。 多分地方のデパートのせいであろうが・・・。 奥さんに買って帰りたいような宝石とか、春色のワンピースは少しだけ発見できたので、デパートというところは元々女性の行く場所であるらしいとも思えた。 デパチカ(デパートの地下)は食料品、屋上とか階上はレストランとか子供の遊戯所とかの定番で、懐古趣味の筆者にとっては少しホッとさせられるが、もっと都会の方では違う趣向があって結構面白いのであろうけれど、何せ田舎のデパートなど殆んど何にも無いのと同様である。 特に中年以上の男にとっては・・・。 10数年前に行ったネパールでは1千万の人口を擁する大都市カトマンズのデパートに行ってみたが、それはチョット小さ目の量販店、ディスカウントショップの10分の1くらいのサイズと品揃えで、流石に貧しさという意味で「凄い」と思った。 ほんの数年前の中国もそうであったが、その経済発展は国民の物欲に比例すると考えられないことも無いので、筆者のように欲しい物が無い人が世の中に蔓延・増殖してしまったら経済は一気に沈滞するのではないだろうか。 何だか景気の悪い話である。 筆者の4人の子供も何故か殆んど物欲というものが無く、これが欲しいとかあれが欲しいとかと適当に聞いても「いらない」と素っ気なく言われて、親としてもあまりにその手応えのなさに少し奇妙な落胆を覚え小さな溜息さえ漏らしてしまう。 政策としての内需拡大と言っても、人間(国民)たちの物欲が無ければ物余り、金余りは必定であろうし、景気低迷も「景気」というくらいで当然の帰結であろうと思える。 つまり人々の気分、欲望が景気動向の重大な要因となるのである。 あとは新しいクルマ、新しい電化製品とかの所謂耐久消費財への欲求となるが、これらさえも目新しいモノが出て来てもいずれも陳腐でありきたりで個人的には少しもそそられるものが無い。 欲望の枯渇はうつ病と老化の特徴でもあるので、国民全員が高齢化しているのと同時に軽いうつ状態なのかも知れない。 もともと物欲の強い実の弟は躁うつ病であるが、躁病の時にはどこで見つけて来るのか何だか素敵なバッグや素敵なクルマや素敵な腕時計を買って来てチョットだけ粋に見えるので、国民全員が軽い躁状態にでもなるのが景気浮揚の一番の妙手かも知れない。 みんなで坑うつ剤でも飲みましょう。 ・・・なんて・・・ネ。 いかにもな形式の陳腐なこの前世紀の百貨店ビルも健在であったので少し安心した。 昔は呉服屋さんが始めたものが多いらしいので、多くの女性たちの衣類への執着は社会全体としてはとても有難いものなのかも知れない。 しかしながら自らの欲望のそれらへの低迷には重ね重ね幾らかの寂寥を感じる。 デパート発祥の地は意外にもフランスで、それは「ボン・マルシェ」という名称の店であったらしい。 何だかカレーのブランドみたいな響きがおかしい。 フランスという国は身分の差が明瞭にあって、貧者(一般大衆)と富者(貴族)では飲むワインでさえ異なるそうで、大衆が日本人のようにブランド品を持つことは無いそうである。 日本では本当のお金持ちは普通ブランド品は持たず、それらを所有しているのは成金かあるいはただ見栄っ張りか、みんなと同じではなくては気がすまないアイデンティティーの薄弱な人々である。 だからデパートに行くと少しも美しくない表情とイデタチの女性とお金持ちらしい男性でいっぱいか、流行というものに敏感な若者か、オバさんかチョイ悪とかを流行させたオジさんが少しいて、全体として失礼ながら日本のお笑い劇場みたいなところであった。 結構辛辣な表現になってしまったが、正月早々誠に興味深い社会見学であった。 ありがとうございました 濱田朋久 追記:学生時代に父親同士が陸軍士官学校で同期だった同級生がいて、この男と一緒に街を散策する羽目になり、筆者が衣類やら遊び道具やら電気製品に夢中でキョロキョロと欲望丸出しで歩いていたのに、妙に超然として無欲恬淡としているのを見て「君は何も欲しくないの?」と聞いた時に、やや自慢げに、また少し侮蔑的に「欲しくない」と言い切っていたけれども、当時はそのようなほぼ同年の男に対して羨ましいとか思ったことはなかった。 自分は「子供である」と自身を少し恥じたが、今はそれが懐かしい・・・と言うか、欲望の対象が多いというのは別に悪いことでも幼いことでもなく、只生きるエネルギーの衰退・凋落のようで今はとにかく淋しい感じがする。 鬱病かしら・・・。 |