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■ 命日 | 2011. 1.11 |
人が死んだ日を命日、つまり命の日と表現するのは何故だろう。 英語だとLife dayになるのかなぁ。 英語電子辞書によると、anniversary of person’s death「人の死の記念日」だと・・・。 何が記念日だと言いたくなるが、誕生日と命日が同じ日という有名人は多い。 NHK大河ドラマで放映中の「龍馬伝」の坂本龍馬も誕生日に殺されているし、シェイクスピアも誕生日に死んでいる。 加山雄三の実父で日本の昔の美男俳優、上原謙も同様だ。 そもそも誕生日というのはバイオリズムとして体調が悪くなるらしく、その上運勢的にも落ち込むらしい。 生年の月日には色々な意味で注意した方が良いらしい。 西洋人のようにバースデー・サプライズなんてやっている場合ではないのだ。 筆者の経験ではバースデーで嬉しかった毎年の看護師さん達の花束と奥さんのプレゼントのネクタイであるけれど、時々届くバースデーカードも嬉しい。 誕生日会などというようなアニバーサリーパーティーは先述した理由により受けないようにしている。 心の中で産んでくれた母親に心の中で感謝するくらいである。 筆者の記憶している命日は3日だけ、それは父の6月30日、母の1月10日、そして特別な人の11月27日である。 悲しい悲しい命の日である。 父の享年は50才。 筆者の25才の時であった。 その日は子供時代の終わりを宣告された日であった。 その日以来、母の手を握り大人として生きていくと密かに決心した。 母の死は75才。 筆者が丁度50才であった。 何故か悲しさも寂しさもそれ程でも無かったけれど、自らのマザーコンプレックスの自覚と母の女性としての愛についてあらためて学ばされた。 そして特別な人の死は大袈裟でなく愛の終わりであった。 或る意味、幸福の終わり、人生の終わりである。 しかしそれは完全ではなく半分であるけれど・・・。 自分の中で何かが死んでしまったようだ。 何が死んでしまったのか分からないけれど、以来いつも半分しか生きていない気がする。 昔「永遠の1/2」という映画があったけれど、亡くなった人への愛の喪失は誰にも埋められないのではないかと思える。 彼女の死は、その意図に関係なく筆者を愛の獄舎に投げ込んだのだ。 彼女以外愛せないように・・・。 それが彼女の計画であったとしたら完璧に実現したのかも知れない。 彼女以外には本当には誰も100%は愛せなくなってしまったのだから・・・。 彼女に替わる人も、彼女を超える人も永遠に現れようがない。 筆者にとって永遠の人になってしまったのだ。 これは有無を言わせぬ圧倒的な心の真実であるのだ。 11月27日は孤独の日になってしまったのだ。 毎晩毎晩寂しくて寂しくて、何をしていてもそれは癒されない。 瞬間的に忘れられても心の底から癒されることはない。 対象物や対象の人がどんなに美人で素敵な人でも「彼女」ではないのだ。 どんなに頑張っても「彼女」にはなれないのだ。 双子のようにウリ二つでも「彼女」ではないのだ。 心の片隅に厳然としていつもある「孤独」を抱えながら、一生一日一日1/2の人生を歩むことになるのだ。 「愛する人を亡くす」というのはこういうことだったのか。 2年を経て3回忌を迎える今日この日に初めてこうしてコラムを書きながら気づいた結構重い真実であった。 「一体どう生きて行けば良いだろう」 自分に対してこんな風な自問はしないようにしているのだけれども、いつも彼女を思う時いつも思い浮かぶのがこの言葉なのである。 いったいどうすれば良いのだろう。 ありがとうございました 濱田朋久 |