コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 自己満足2010.12.15

筆者の自己満足というものの本質は美意識であると思える。
それはモチロン外観外見もあるけれど、言葉遣いとか行為行動についての美意識であると・・・最近思える。

しかしながらこれは、ただの自己満足なのではないかとも考えられるので、自らの心の軌跡を辿りながら少し検証してみたいと思う。

過去の経験の中で、後悔の第一は自らの失言暴言で最愛の人を死に追いやったのではないかという後悔と、母親の癌死やその前提にあった糖尿病や胆石についてももっと積極的に関われば良かった・・・。
これは自分の心を誤魔化しつづけて直面していない最大の後悔、自分だけが分かっていた「不祥事」である。

それはさておき、ほんのささいなことなのはしょっちゅう思い出す悔恨というのがあって、それは学生時代の友人からクルマを貸してくれというのを断ったことと、深夜の救急の往診を断ったことである

人の頼み事を断るというのは誰でもあるとは思うけれど、先述した2件の前者、友人の頼み事については寛容寛大な広い心さえあれば簡単に応じれたことだし、深夜の往診についても翌日の朝の目覚めがとても悪く一日中そのことで気分が重かったので、以来急患を自分が応じれる程度、つまり自分の力量で対応できる患者さんの要請には必ず応じるようにしている。

一方、友人の頼み事についてはできることならさっさと快諾するようにしている。
ずっと後悔して過ごすよりはるかにマシだからである。
何も感謝されたいとか相手に好かれたいと思っているワケではない。

以前にコラムで書いたように「逆恨みの理論」というのを自分で書いていて、それは「恩は仇で返ってくる」というもので、良かれと思って人にしてあげたことが何となく感謝ではなく反撃とか攻撃とか「逆恨み」で返ってくることが多く「何故?!」と考えた末に思いついたのが、世話になった人というのは何と世話してくれた人に「負い目」があって、それを返せないとだんだんと相手が憎くなって来てついでに当時の恩よりもプライドを傷つけられた・・・と感じて何となく心が恨みがましくなるのではないかと推察しているワケである・・・けれどもこの理屈がすべての逆恨みの理屈を説明できるものではないと思えるので付記しておきたい。

筆者がついつい大損か小損かにかかわらず、人知れず「人助け」をしてしまうのであるけれど、それは本当に相手の為になったのであろうかという疑問と結果的に逆恨みやら相手をダメにしたりとロクなことが無かったという結果も多かったりして、そういうボランティアめいた損をしてまでの人助けはやめようと思うのであるけれど・・・これは多分生涯やめられないと思える。

何故かというと自分自身を尊敬したいからである。
誰も見ていなくても誰にも言えないし、ましてや先述したように相手に感謝されたいと思っているワケではなく純粋に自分のことを「素敵だなぁ」「カッコイイなぁ」「男らしいなぁ」・・・と思いたいだけのただのナルシスト的自己満足なのではないかと最近反省しきりなのである。

相手が喜ぶ顔も見たいし、幸福になって欲しいという願いも出て来たりしてこのドロ沼のような「人助けぐせ」はどうも治りそうにない。
職業病かも知れない。
本当は物凄くセコくてケチで小さい男なのに、その当りはどうしても見栄を張ってしまうのである。
そうしてお金をいっぱい稼ぐ力があってもどうしても蓄財が出来ない。

子供の教育費が捻出できるかさえ心配になっている。
ナルシスト的自己満足の為に家族を苦しめるのはとても悲しいことである。

この問題については解決を見い出していない。
近々に起こった経営上の失敗の為にこの自分の生き方に問題があったのではないかと最近とにかく反省しきりである。

この「人助け」の内容については3つの理由で書き述べるのを差し控えたい。

第1に相手の人に失礼であろうと思えるからである。
恥を忍んで助けを求めたのであろうし、もともと困った状態の人のことを話すのは優しくない、思いやりの無い所作であると思えるからである。

第2に自分のことを「バカじゃないの」と人から思われたくないからである。
これも見栄ですネ。

第3に多分に自慢話に聞こえるのが嫌だからである
人にあ〜してやった、こうしてやったと自慢気に述べ立てるのはあまり美しいものではないと思っているからである。

個人的感覚では美意識というものは羞恥心と似ているところがあるが「恥」の文化というのは多分に武士道的である。
「恥」とか「名誉」とかを重んじた文化では親が軍国右翼人間で、そういう精神的な背景を自然に身につけさせられたのかも知れず、ただの遺伝かも知れないし、育った時代環境かも知れない。

こういう「恥」とか「美意識」が自分と全くマッチしない人が今回の不正事件の張本人であるので全く話しが合わない。
というより醜悪な対決であるのでこれも気分がとても重い。

自らの美意識(自己満足)を押しとおすか一般常識レベルであっても自分はあまり損をしないようにして平気で攻撃したり、時には騙したりして自分の利益を確保するというような浅ましい人間だけはなりたくない・・・と今は考えているけれどイザという時にはどうなるかワカラナイ。
そんなに強いい人間ではないし、人間だもの・・・。

「貧すれば鈍す」というではないか。
本当の貧しさではないのでまだ鈍してはいないのかもしれない。

本当に困窮していたら人殺しやドロボーまでするものなのかも知れない。
人間だもの・・・。

だけどやっぱり自己満足でも良いから自らの美意識にはできることなら一生こだわっていきたい。

繰り返しで恐縮であるが、自分のことを「尊敬できる人間」と思いたいし、そのように努力して進化させたいのだ・・・。
人間として・・・。

ありがとうございました
濱田朋久


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