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■ 記憶の海を泳ぐ | 2010.11.14 |
認知症という病気があって、高齢者のみならず近頃では若年性アルツハイマーなどという忌わしい病気まで出現してきたりして、多くの人々はそれにおびえているように思える。 治療研究が進み、完治する人もチラホラ見られているそうであるから喜ばしいことである。 年を取ると誰でも多少ボケるもので、主として短期の記憶力が失われ、或る時「ここはどこ、私は誰?」「キミは誰?」なんて状況に皆さんなるのであるけれど、普通に生きて仕事をしている人々の多くはそのこと、つまり「記憶」というものの重要性に気づいていないように見受けられる。 これが「自分である」という概念、感覚は全て記憶によって生じているもので、次々と自分に関わることを忘れていったら「自分」とか「世界」とかの感覚が失われ、さらには生きているという実感も無くなってしまうかも知れない。 今は学校でも職場でも記憶力よりも創造力、思考力を重視し、記憶することを軽視する傾向があるが、創造も思考も記憶されたものを材料に行われるので、知識や情報や経験については記憶されている量の多い程色々な意味で便利であり、創造性とか思考力についても確かな判断や成果を勝ち得るような気がする。 決して記憶されたものや記憶力をバカにしてはイケナイのだ。 料理などでもそうであるが、料理そのもの(創造)よりも材料(記憶や知識)が大切になることも多い。 筆者は医者であるので、大学の医学部を出たワケであるけれど、医学部というところはあまりアタマの良い人が入学するべきところではないと思える。 何故なら勉強の殆んどが記憶する作業だからである。 弁護士さんとか経営者のように物事を構築する、計画する、創造することよりも知り得た知識を元に物事を分析し、推理し、判断し、決断するアタマである。 モチロン難しい外科の手術とか難治性の病気や難病の治療にたずさわるお医者さんの場合、この理屈が適合しないかも知れないが・・・。 先日夜に電車に乗っていたら、若者達が一生懸命本を読んで勉強している姿が目に入った。 30分あまりの車中の観察で得た結論は、この学生は「医学部」である。 推断したのであるが、その根拠のひとつに無闇に「記憶」する作業を行っていたからで、何かを創造する、推理する風ではなかったからである。 後で持っているテキストを確認してみたら、解剖学とか生理学とかあったし教科書や本の量の多さを考えるとマチガイなく医学生である結論づけた次第である。 筆者の読書法というのは必ず筆記具を持って、さかんに本に書き込みやらメモやらをしながらあらかた読むので、古本屋に売れる代物では無くなってしまっている。 何故にそのような読み方をするかというと、それはひとつひとつキチンと記憶をせんが為の行為で、これは学生時代の名残りである。 そうしてその工夫をして退屈しないように、どちらかというと断片的に読む。 そうして後でパズル合わせのように記憶を組み合わせ「ナルホドそうか」なんていう風に脳に快感を呼び覚まそうとする読書法である。 勉強法はともかく筆者の深いヨロコビの源泉というのがこれまた記憶の海の中へ飛び込んで追憶、追想するというもので、現実の嫌なこと、辛いことをいっぺんで忘れさせてくれる妙薬、妙手なのである。 それで自分の経験だけでは物足りないので本や映画を材料として記憶するのであるけれど、本の物語と映画の記憶と現実が混じり合って記憶されているので、経験記憶と学習記憶との区別が時々さだかではなくなる時もあったりしてとまどうこともある。 それらあらゆる記憶というものの中で、喜びを感じさせてくれる記憶を中心に「思い出す」ワケであるけれど、膨大な量の楽しい記憶、嬉しい記憶、快楽の記憶があってそれをボンヤリと白日夢のように追憶、追想する時には全身が痺れるような深い愉悦を得ることもある。 子供時代、少年時代、大学時代、若い新米医者時代、新婚時代、子供の幼い時、仕事の発展拡張、患者さんや看護婦さん、友人たちの交流などどれも有難い、素晴らしいことばかりであった。 モチロン辛いこと、嫌なことも悲しいことも数多くあったにはちがいないが、そんなものは殆んど忘れてしまう結構心には都合の良い右脳をを持ち合わせているようで、いつも大体この追憶追想のヨロコビを苦い経験の記憶が毀損することはない。 ありがたいことでる。 モノの本には苦しみの経験も時を経ると喜びの記憶に変質するらしいともあるので、別に特別なことではないかも知れない。 仕事中も夜もこれらの脳の作業に熱中しているので、気分は概ね良好である。 ハッピーと言っても良い。 そうしてそれは結構つまらないし、取るに足らないことが多くて、例えば高校時代に行った女子校の文化祭の思い出とか、無免許ではじめて乗ったオートバイの思い出とかはじめての女の子とのデートとかはじめてつけた腕時計の感触とか、そういった若い頃、青春時代にした新鮮な経験が多いが、近々の恋愛ごととか仕事の完成の喜びとかもう数え上げたらキリがないくらい心地良く素晴らしい記憶を自覚する時がある。 そのような心の作業をしていると、しみじみと有難いなぁという感謝の心のがあらためて芽生えてさらに仕事や人生全般についての活力がみなぎってくるし、現世の直面しているさまざまの苦しみも瞬間的に一時に取り去ってくれる。 何故に多くの人々が不平や不満や愚痴ばかり、数え上げ言いつのるのか、聞いて欲しがるのか理解はできるけれども、できれば時々は記憶の糸をたぐり寄せ当たりくじのような甘く心地良い記憶を再現し、再体験してみるのも人生の憂さを晴らす方法かも知れない。 もっと楽しかった、嬉しかったに浸れば良いのにと時々思う。 仕事柄、愚痴や泣き言を聞くことが多いので自分の経験を話したくてウズウズするが、我慢してそれらはいったん取って置いて拝聴するようにしている。 最近の結婚式では思い出のアルバムを幻燈機、つまりプロジェクターで音楽を流しながら次々と映し出す仕掛けがあるが、それらを視聴しながらみんな涙を流して感動しておられるのを見るとああいう催し事でなくても心の中で意識してしょっちゅうすれば、日中いつでもどこでも喜びを味わいながら生きていけると思うのだけれども・・・いかがであろうか。 良いアイデアと思うんだけどなぁ・・・。 「記憶の海」はどんな人の心中にも深く満々と静かに広がっていて、それを気分良く泳ぐのか溺れてしまうのかはたまた泳ぐのを拒んで船に乗って星空を見上げるのか。 追記:話は全くちがうが個人の好みであろうけれど、筆者の心の中に描く心地良い海のイメージというのはハワイとか沖縄のような明るい海ではなく、月明かりに照らされた「夜の海」を白砂に縁どられた緑の小島に素敵なパートナーと一緒に黙々と泳いで行くというもので、それはどちらかというと暖かい海で、2〜3mそこそこの浅い海で、鮫や猛魚の少ない静まり返ったものである。 映画「スパイ・バウンド」でヴァンサン・カッセルとモニカ・ベルッチ扮する男女の偽夫婦が夜の海をスイミングゴーグルと足ヒレをつけてクロールで遠泳をするシーンがとても印象的で、夜寝る前に繰り返し観ていると深くやすらぎと癒やしと奇妙な郷愁に心が満たされるのが不思議である。 ありがとうございました 濱田朋久 |