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■ 夜の店について | 2010.11.12 |
「何故男は酒を飲みにでかけるか」 この理由を一言で述べるならば、「淋しいから」となる。 「退屈だから」というものもあるかも知れない。 人によってはそれが「習慣」だという人もいる。 特に既婚男性を例に挙げるなら、夫婦差し向かいを避けたいという潜在的欲求もあるらしい。 その上普通、妻というものは夫にあまり優しくないものである。 「甘えられる」のを嫌う女性も多い。 モチロン生理的に備わった母性本能というものが女性にはあって、巧みな甘え上手な男はこのあたりの性向を良く心得ていて、甘えたり甘えさせたり、冷たくしたり優しくしたりと女心を揺さぶって女性を自分の思い通りに操る。 「悪い男」はこれらの手法を自然に身につけており悪意を持つ男の場合、大変な被害を女性に与えることがある。 こういう男には普通の女性は簡単にひっかかる。 しかし、善良な男であるなら、これらのヤリトリも楽しみ、幸せとなるので悪い面ばかりではない。 そういう意味では夜の店に頻繁に出入りする男は或る意味、単純で素朴で可愛いとも言える。 ただの「甘えたがり」「寂しん坊」だからである。 モチロンそれらの夜の女性を口説きに行くマメな男もいるが、水商売の女性の殆んどは金銭が目的の単なる商売である上に、男を見る目が厳しく肥えている為に滅多に口説きに応じることはない。 最も「落ちにくい女性の職業」が夜の商売の女性と言えるかも知れない。 たとえば昔は「高嶺の花」であったスチュワーデス(今はCAと呼ぶらしいが)の方がはるかに口説きやすいそうだ。 こと口説き落とす対象として簡単な順に言うと、若くてキレイな女性、素人の女性、普通の女性、普通の主婦ということになるが、若い女性を口説いてもなにも面白くないのでやはり難物の極みである夜の女性に何とか「モテたい」というのが男の本能に近い欲求なのかも知れない。 お金さえ出せば必ず会える女性であるという「利点」もあってこの人気はナカナカ衰えないようだ。 近頃の若者はあまりお酒を飲まず、お金もないので「飲み屋」に出入りする男性はメッキリ減ってしまったと聞く。 若者の場合、単刀直入に酒に酔って騒ぎたいという欲求と、やはり「オンナ」が目的なので独身者、既婚者を問わず今も昔も夜の店は街のオアシス、癒やしのスポットであるのだ。 今はコンビニとかビデオ屋やリサイクルブックストアが不夜城であるが、夜のオアシスで田舎も都会でもあればこれにパチンコ屋、カラオケボックスが加わる。 何と創造性の無い紋切り型の男の遊びであることヨ。 近頃は女性の出入りも増えていて少しオモシロイ。 先年亡くなった、昔日本の首都1000万都市東京都の知事であった青島幸男氏などは夜の店なんて行くよりはカミさんと話してた方がはるかに有益であるし、愉快であるとヌケヌケと言っておられていたが、この発言は知事になる前であったので、そういう女性観、生活信条が都会人に受けたのか当選したのかも知れないが、このような男性は男の美意識のひとつの象徴であるダンディズムの対極にあるツマラナイ男、粋でない男の典型であるので、個人的にはあまり真似はしたくないものだ。 奥さんがいくら美人で聡明で優しい才色兼備の女性であろうと、ご主人が熱烈な愛妻家であろうとそれらをひた隠して表に出さず、時には疲れたカラダを押して夜の店でお金を散財するのが余裕のあるいっぱしの男の世間に対する礼儀であり義理であろうと思える。 夜の店には、子供を持つバツイチや貧しい独身の女性、他に働く術やワザを持たず、やむにやまれぬ事情で、昔風に言うと少し表現が悪いけれども「身を落として」いる女性がいっぱいおられるのだ。 多少経済的に余裕があり、身分もある男なら強欲貪欲に無目的な蓄財に夢中になったり、少しの含羞もなく醜悪な吝嗇家に成り下がるよりも夜の店でスパッと仁等するのが尽蕩する方が何数倍も男としてカッコウがよろしい・・・と思える。 家に口ウルサイ大姑、小姑がいようと愛する妻が健気に待っていようと男は夜の店で遊ばなければならないのだ。 多少大袈裟に言えば、ひとつのそれはまた最も簡単な社会福祉事業でもあるのだ。 酒が飲めようと飲めまいと、そのような日本の社会のひとつのナラワシなのである。 男の「遊び」の文化なのである。 夜の店は、ただ単に男が優しさや癒やしや退屈しのぎに行くところではないのである。 ましてやただ酒を飲んで、女性に単に癒やしや特別なサービスを受けるところでも無いのだ。 そういう理屈を知って夜の店へ出入りするならば、無闇にカラオケを歌いまくったり、ホステスさんに威張り散らしたり、愚痴や泣き言や自慢話などを吹聴して悦にいることもなく静かに夜の女性達の身の上話や悲しい話に聞き入り、紳士然と大人しく酒をチビチビと飲むべきであろう。 モチロン、サービス精神にもとづいた楽しいドンチャン騒ぎ、ユーモア話、美しいも良いかも知れない。 「男はツライヨ」 それをいかに楽しむかが夜の店における男のタシナミというものであろう。 この辺のところを専業の主婦も若者も知性も教養も無い中年の御仁も全く理解していないことが最近ママあるようである。 家で妻と家庭の安閑にふけり、レンタルビデオを見て、子供達と楽しい団欒なんていうのは日本の文化としては或る意味男の堕落と言えるかも知れない。 以前に地元の市長選に出て何回も落選した愛妻家の男性がおられたが、四六時中奥さんと一緒に連れ立って街を歩き、遊興し、飲食をしておられたが、このような夫婦のカタチというのは政治家として、日本人の文化感覚ではOUTであろう。 かつて総理大臣として国民の人気を独占した小泉純一郎氏のようなバツイチ独身の方が一般大衆には好もしいのである。 アメリカ人の真似かも知れないが、日本では妻や配偶者は「奥さん」と呼んだりして、徳川幕府での男子禁制の「大奥」というものがあったようにお嫁さんというものは家の奥深く隠して、夜に愛玩し心から愛であげ奉るものであって、どんな美人であっても西洋人のように明るい表に連れ立って見せびらかして喜ぶ存在ではないのである。 一部の女性からは反発があるかも知れないがそういう日本の文化なのであるから仕方がない。 そうしてそれは男尊女卑というものでもない。 配偶者のことは時々「カミさん」と呼称するように、実のところ家庭や夫婦関係における神様のような存在なのである。 崇め奉って厳かな神殿の奥に一般人の目につかないように家の深部に秘蔵しておくのが奥さんというものの日本的在り方なのではないだろうか。 夜の店の女性というのは「奥」から「表」に出てむくつけき男たちに酒を注いでどうでも良いようなヨタ話を聞かされたり、無礼な触手に耐えて、生きる為に悲しくも偉大な仕事をしているのだ。 多くの奥様達、冷たい恋人達のかわりに・・・。 そういう共存関係、尚且つ時には奥様達も最も頼るべき夫の退職、失業、偶発的な病失・事故死亡などでもあればそれなりの容色の備わった女性でなくても必然的な夜の世界に身を落とす。 危険が全く無いワケではないのであるから、お互いによくこれらのカラクリを理解し合って「共存共栄」していくのが大人の考え方ではないかと考えている。 ありがとうございました 濱田朋久 |