コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 「幸福論」について2010.11. 6

たまたま文芸春秋の別冊とトップポイントという主にビジネス書のダイジェスト誌に「幸福論」についての特集がなされていたので、少しこの方面についての私見を書き述べておきたい。

所謂「幸福論」というものは、主に西洋の哲学者から論じられている書物が多く、東洋思想にはあまりそれらしいものは見られない。
強いて言えば論語くらいのものであろうか。
それでも正面切って「幸福」について述べたてている思想書では無い。
「幸福」という概念は、主にキリスト教的なもの、西洋哲学的なものであるらしい・・・。

日本の著作物でも確か三木清の「幸福論」があるくらいだ。
西洋人の書物ではアラン、ヒルティ、バートランド・カッセルのものが知られている。
さらにヘーゲルとかニーチェとかの哲学書も幸福についての意見をそれぞれ持っておられるようだ。

文芸春秋の特集号「ゼロから始める『幸福論』」をざっと通読してみると何だか逆に不幸になったような気分がするから奇妙だ。
人間を幸福にしない「幸福論」だ。
・・・少なくとも筆者にとっては。

辞書を引くと「幸福」とは「すべてのことに満ち足りていて心おだやかなこと」「不自由や不満もなく心が満ち足りていること」とあるそうだ。

ナルホド。
文言で表現するとそんなものであろうと思えるけれども、あろうことか東大卒の銀行マンで有名なシンガーソングライターのO氏などこの定義すらも批判しておられた。

このO氏によると、人間が完全に満ち足りることはないそうである。
何故なら人間の欲望には限界がないから・・・とのこと。
・・・であるから氏によれば、幸福は「見果てぬ夢」であるということになる。

これは幸福というものを「欲望満足」中心に考えるからそう思えるのであって、そういう傾向の無い人、即ち世間的、外面的欲望の希薄な人々にとっては無限の欲望満足と幸福とは無関係に「感じ取れる」ものではないかと思える。

そもそも完全に満ち足りることと欲望満足とは似て非なるものではないかと思える。
「満ち足りる」と表現するからすぐに欲望と想起されるのであろうけれど、欲望そのものから精神が解放され自由になった時に初めて真の意味で「満ち足りる」ものなのではないだろうか。
少なくとも筆者の分析によればO氏はそのように外面的な欲望を中心とした人生を歩んで来られ、現在もその人生観がつづいておられると想像される。

何もそのような人生観が良いとか悪いとか苦しいとか楽だとか言っているワケではない。

筆者の述べた論旨は主に
3つあって、ひとつはそれぞれの個人によって少なくとも思考(理性)、欲望、感情、感覚によってその重きをなすものがちがえば自然に幸福感もちがって当たり前ではないかと言いたいのだ。
つまり
@欲望を中心に人生を捉える人々
A感情、感覚を中心に人生を捉える人々
B理性、思考を中心に人生を捉える人々
この3種の人間があり、それぞれ軽重や重複があっても個々の「こだわり」の傾向がある筈で、特にその欲望に限ってみても
@食にこだわる人
A性にこだわる人
と二種の人間が存在しているように思える。
これらのバランスのとれた人格の持ち主も幸福な人物の典型として推奨したいが、そうそう単純に断じるワケにはいかないだろう。

先述したように東京大学という、その入学には理性(思考)の能力を最高度に要求され、それをクリアしてそこで学び、さらに言うならば人間社会の欲望の中心的 職業である銀行(金銭を扱うという意味で)に身を置き、あり余る才能を持て余し、二足のワラジを履いて感受性(感情、感覚)を発揮しなければならなかった音楽の世界で活躍したO氏ですら、この欲望への「こだわり」から脱け出せなかったのであるから・・・。

この文芸春秋の特集で登場する各界の有名人たちも「学者」の方も多くが或る意味想像どおり欲望満足と幸福という関係性を強調しておられる。

この雑誌の巻頭からして経済的豊かさと幸福の関係性についての話である。
たとえば「年収1,000万までは増収入と同時に幸福感が上昇していくが、それを越えると幸福感が落ちる」とか「日本人は先進国中最も幸福感が低い」とかあってなぜか悲しい。
家族にしろ、仕事にしろ、趣味にしろ、遊びにしろ、考え方にしろ、生き方にしろ、哲学にしろ、それがどんなに有益で素晴らしいものであれすべては人間のただの「こだわり」である。

仏教的に言うと、この「こだわり」こそが一時的な幸福感を生み出すと同時に不幸感をも呼び覚ます。
「宴の後」「祭りの後」「恋の成就」「世間的成功」などすべての欲望満足の後には、或る虚無が必ず多かれ少なかれ人々の心の中に漂うものである。
欲望を中心に捉える「幸福論」そのものが人間を不幸に導くように思える。

そこで東洋哲学の登場である。
仏教思想の「無」の概念、道教の「道」の思想、神道の「神」についての考え方。
それらの哲学、考え方には生々しい欲望というものも人間の浅薄の「こだわり」も完全に否定されているワケではないが、本質的には存在しているように見える。

ただ「生」と「死」があり、天と地と宇宙があり、悠久の時間があり「生」も「死」も超越した「無」の思想があるのだ。

そこに幸福論など存在し得ないのだ。
こうして考えてくると、どうも西洋思想より東洋思想の方が哲学的上位にあるように思える。
人間を幸福にするという意味で・・・。

幸福を除外し超越することで自然に幸福を得るというワケであるから皮肉なことである。

幸福など追求しないでただ「無心」に生きてみたらいかがであろうか。
幸福追求の欲望こそ、真の意味の幸福の敵ではなかろうか。

筆者の幸福論は、と言うのは、第1にそれは極めて主観的なものであり、内面的、精神的であるので誰もその個人の幸福について侵蝕することはできないし、不動不滅のものである・・・でなければそれは幸福とは言えない・・・と考えている。

第2に何の理由もなく「満ち足りていて」どんな制限を受けても「自由な精神」を持ち、あらゆる「こだわり」「とらわれ」を捨てた状態を幸福と呼ぼう・・・と個人的には考えている。

ありがとうございました
濱田朋久


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