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■ 非婚時代 | 2010.11. 4 |
或る独身の40代の美しい知り合いの女性が、完全な人工授精、つまり精子提供者を特定できないカタチで妊娠、「子供を生む」という決断をした。 人口数万人の田舎町、昔で言うなら非嫡子、私生児出産、今風にはシングルマザーになるワケであるから大変な勇気がいるであろうけれど本人の表情は意外にも明るく晴れ晴れとして女性としての美しさも一層増したように見えた。 昔NHKの特集で、女性を中心に「子供を生むこと」についての討論インタビュー番組があって、個人的感覚では少々驚くべき質問が司会者の方から出ていたのであるが、それは「子供を生むこと」のメリット、デメリットというものであった。 「人間が子供をつくる」という行為にメリットとかデメリットとか、損とか得とかの価値基準を当てはめるのには人生の経済性、損得勘定にもとづいた思考パターンがあって何となくいじましい。 それは生物としての本来的な、根本的な、そして極めて自然な本能、欲求、もっと美しく表現するなら「人類の永続発展の為の愛の完成」のようなものであると思えるからだ。 その経済的側面を短期的、ごく個人的に見ればそれは明らかな負担であり、損失である。 独身であり、子供なしであれば精神的にも経済的にもあきらかに「楽」である。 苦しみもないかわりに悩みもない・・・その上喜びもない、幸福もない・・・。 愛がないからである。 子供のいないカップルや夫婦、女性も世の中にたくさんおられて、それはそれで生きる意味もあり、純粋に男女の愛、隣人愛にその人生を過ごすにはかえって好都合であろうし、もしかして偉大な大事業を為す為に「子供のいない」状態が必要であるかも知れないので、とやかく述べ立てるつもりは毛頭ないけれども「女性が子供を生む」という神が賜った純粋な喜びも確かに全ての人間の心や肉体に宿っていることは確かな事実であるからだ。 そうしてそれが人類の進化発展、永続の為に絶対必要条件ではないかと思えるし、その根底には性欲にもとづいた自然な妊娠出産が最も基本的に存在しているのが人類の本態と思える・・・ので、あらためてテレビで討論するというのは女性の立場の擁護とは思えるけれども何だか淋しい気がする。 もともと出産の母体となる人間関係の中心は今も昔も結婚という形式になっているが、今は恋愛結婚が中心で好きとか嫌いとか「愛してる」とか、主に若者の激しくも衝動的な性欲にもとづいた「若気の至り」「アヤマチ」なのであって、決して理性的に計算し尽くされたものではないのだ。 少なくとも大部分の結婚とはそういうものではなかろうか。 そのうちにメリット、デメリットにかかわらず「できちゃった」子供、もしくは「子供が欲しい」という本能に近い欲望の結果、幸か不幸かこの世に出現した「子供」ありの状態がコトのナリユキとしてあるだけなのではないか・・・。 このような一般的背景の中に「子供を生む」という強い意志でもってなされた決断というのはやはり現時点ではどちらかというと異端であり、稀なケースであろう。 先進国の中でもフランスは政府の少子化対策が効を奏したのか、何と出生率2,0を超えたそうな。 日本の1,2そこそこのそれと比べると天と地ほどの差異である。 フランスでは戦後すぐに起こった急速な少子化に対する懸念から政府の手厚い出生促進の政策がなされ、それは子供を3人持てば仕事をしなくて良いくらいの徹底したものらしく、日本民主党の打ち出した「子供手当て」どころではないレベルの少子化対策であった。 その上もともとフランスでは非嫡子率が50%程もあり、日本の1%以下とは大きな隔たりのある文化を持ち、それを容認する背景と所謂シングルマザーぼ生きやすい社会福祉制度があるらしい。 いずれにしても先進国の中でも離婚率の低いフランスのお国柄、宗教的(カトリック教団)にその離婚のしにくさと相まって非婚出産がさらに加速され、出生率の回復に至っているのであるから皮肉なものである。 つまり、今の日本のように結婚と出産を結びつけて考える思考パターンから脱却して結婚と子供を持つことを分けて捉える考え方への転換を迫られているのが我が国の現状ではなかろうか。 結婚、離婚、出産、子育てと古典的な家庭を中心とした人生のあり方を親子と男女との関係性、仕事と家庭、ひいては個人と家族との関係性、個人と社会、家族と社会の関係性をもう一度じっくり再考してみる必要があるのではないだろうか。 世界中そうなのか知れないが、日本の為政者、日本の社会は「赤信号みんなで渡れば怖くない」とか「みんなが持っているからブランド品」みたいな右へ倣えの文化の為か異端とか得意なものを嫌う傾向にあり、それが文化としては「村八分」であり、教育の現場では「いじめ」であり、社会現象としては既に異端でも奇異でもなくなっているバツイチとかシングルマザーとかそのような言わば少数派と呼ばれる人々への白眼視じみた対応の遅れが見られやすいのではないかと思える。 世間的に表現されるそれは「個性の重視」というようなものではなく、純粋に社会学的分析の非現場的な行政やマスコミの対応によるのではないかと思える。 今や既婚者、未婚者、別居者を問わず結果的に非婚時代へいつのまにか突入しているのだ。 結婚の幸福はモチロン今もカタチとしても精神的に存在している筈であろう。 けれども個人の価値観が多様化していると同時に、家族や家庭の価値観、形式も激しく多様化しているのだ。 恐らく・・・。 ありがとうございました 濱田朋久 |