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■ 幸福と不幸福 | 2010.10. 2 |
厳密に言うと幸福の反対は不幸福と表現するべきで、不幸はアンラッキーつまり災いにたまたま遭遇することを指しているので、色々な善行を積み重ねて得られる福という字意も込めなければならないと個人的には考えている。 世の中には実に不幸(アンラッキー)な方も数多く居られて誠にお気の毒であるが、一方では端から見てさほど不幸でもない人々の多くが自らを不幸、不幸福と認識して嘆き悲しんでいるのを拝見すると善意の第三者としての感想では少しく奇異に感じられる。 結論的に述べると、このような不幸福な人々の特徴を一言で表現すると一生懸命に「不幸なことを考えている」・・・ただそれだけではないかと思えるのだ。 言葉を変えるならば、何事に対しても「有難がらない人々」と言っても良い。 つきなみな言いまわしであるが「感謝の心」は幸福感を生み出す最良最大の精神的エネルギーであるが、それは普通自然発生的に心に湧き起こるものではなく、大方の予断とは異なり冷静で客観的な思考から生じるものであるので、どちらかと言うと「左脳的」で「言語的」で「論理的」なものなのである。 冷静な思考→感謝の心→幸福感→楽観的な気分という方向に心が進んでいくと仮定することができるのではないかと考えている。 頭がクールに醒めている人。 覚者と呼ばれるほど心が冴えわたっている人というのは必然的に楽観的で謝念の強い冷静な人ということになる。 逆に表現するなら「不幸福な感じのする人」とか「物事を有難がらない人」というのは失礼ながらアタマの悪い人と呼べるのではないだろうか・・・。 少なくとも物事を全体的に俯瞰できる思考の持ち主ではない・・・のではないかと思える。 自らの頭脳、特に前頭葉連合野をしっかりと働かせてあらゆる物事を創造的に客観的にクールに評価、判断して行けば人は殆ど全て感謝の世界に心を飛翔させ、さらには理由の要らない幸福感、つまり無の世界に入ることができそうして初めて真の不動の幸福感、至福感に至る筈なのであるけれど、悲しいかな我々のように多く凡夫煩悩の人間はささいな災いや心の痛みにすらもだえ苦しみ、本来は楽しかるべき人生を無闇に消耗させ、何となく一生を終えることが多いようだ。 人間の感覚神経は痛覚が最も多い。 この事実は人間の存在そのものがその生命の維持においては「痛みの感覚」に敏感であることが自分の身体や心を守る為に必須なのであろうけれど、そのような人体のシステムや心のカラクリにもキチンと反映されていて、多くの人の心身がネガティブなこと、不幸なことに鋭敏に反応するように出来ているようである。 それも他人の不幸、他国の不幸などは何だか嬉しそうに多くのメディアに報道され、また人々もそれらに見入り聴き入っているように見える。 このように考えてくると幸福な人になるのは実に簡単で、常に「幸福なこと」を考え、思い出し、未来に思い描いて不幸なことはただちに忘れてしまい、意識して考えず、あまり嘆かず黒痴らず、ついでに人の悪口などもやめて感謝の心をクールな頭脳で育んでいけば必ず真の幸福者に精神面でも物質面でもなるのではないだろうか・・・。 不幸や不幸福ではなく幸福について心をフォーカスさせて、そうして時宜に応じて小さな「悟り」を毎日少しづつでも倦まず休まず開いて行けばひょっとしたらブッダやキリストやムハンマドや老子や孔子やクリシュナムルテイのように人生や人間世界を超越してこの大宇宙の果てまで心を拡散させ、痺れるような無我のエクスタシーを感得して何をも恐れず愛に満ちた至福の人生を楽しんで生きて行けるかも知れない・・・ ありがとうございました 濱田朋久 |