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■ 人間の死生観について | 2010. 9.13 |
「霊魂が不滅であるという考え方は、生ける人間の生命への執着と死者への愛着のあらわれでありましょう」 1934年に発表されたノーベル賞作家・川端康成の作品「抒情歌」の一文である。 流石に72才で自殺するような男性の、或る意味で少しも感傷的でない味気なく殺風景な「死」というものへの感覚である。 とてもアタマの良い人の素気ない人生への姿勢がうかがえる。 ノーベル文学賞選考の対象になった作品「雪国」はそのタイトルからしてとても抒情的で、美しく日本という国と日本人感覚と感性とを巧みに表現していて、確かに秀逸な作品となっているが、この小説の物語のあちこちに作家本人の微かであるが確実な死への欲求が読みとれるが筆者のカン違いであろうか。 向田邦子という女流作家にもそんな風な匂いが感じ取れる。 この女性は取材旅行の途中で台湾の国内線の飛行機事故で亡くなるのであるが、実は有名な飛行機嫌いだったそうであるから皮肉な話である。 23才から33才までのほぼ10年間、13才年上の妻子ある男性との今で言う「不倫関係」が死後に妹氏の「向田邦子の恋文」として出版され世の中に良い意味で暴露されたワケであるが、その秘めたる恋心というものが非業の死にいたる18年間も彼女の心の内に静かに、そして密やかに生きつづけていたらしいことがうかがわれていて、そこには恋というものの文学的な美が感じとられ、また痛ましくもある。 この、向田邦子という女流作家は筆者の分析によればタイプ7の七赤金星ということになるが、この星の人は極端な寂しがり屋と天才的な気配り能力と素晴らしく創造的な頭脳を持ち、どちらかというと暖かい団欒とかマイホームを欲する一方で、それらから遠ざかるという傾向を有するようだ。 美的感覚に優れ、度胸もあるので実業家にもこの星は多く、ソフトバンクの孫正義、スズキ自動車の鈴木修、経営の神様松下幸之助もこの星である 米国人俳優のクリント・イーストウッドも同じく、映画監督の小津安次郎もこの星であるので、この両監督の作品を観るとこの七赤金星という星の人々の人生の考え方捉え方、感性、生活の信条みたいなものがよく読み取れる筈である。 また話がそれてしまったが、「霊魂の不滅」というような考え方こそ人間の人間たる感性ではなかろうかと思えるが、神とか霊とかの存在を認識できるのは人間だけであるので、そのようなものを人間の心や理屈で捉えれば、まさしく先述した川端康成の一文のとおりであるが、そうそうたやすくそんな立場には立てまい。 何故ならば、バカのひとつ憶えのように述べることであるけれども存在論的に宇宙の誕生から地球の誕生、生命の誕生から人間の存在への時間的空間的に追求すればどうしても人に説明する時に神という概念に頼らざるを得ない気がする。 先日、友人でもあり筆者の大学の後輩でもある僧職の男と少し宴席で議したのであるけれど、その内容というのがこの霊の実存についてであった。 彼の言によれば仏事、霊的な催し事、つまり法事などは生者の単に心の満足の為であって、 霊も神もいまだにその存在が確かめられていないので、それが「無い」という立場であったが、筆者としては少なからず仰天してしまった。 その無神論者に近い立場を僧職に就いている人間の言ではあるまいと思えたからである。 宗教関係の大学でいったい何を学んで来たのであろうかと考え込んでしまった。 丁度、大学の医学部で健康法だとか栄養学について学ばないのと少し似ているように思えた。 学んでいる学問の本質が人類の為、世の中の為、自らの人生の完成の為でなければその学問に果たしてどんな存在価値があるのであろうか。 単なる学問の為の学問、マスターベーションみたいなもので自己満足的、自己欺瞞的で社会的には全く無価値なものに堕してしまうような気がする。 生について深考する時には死についても考えを及ぼさずにはおられない、コインの裏表、物事の表裏一体的な概念の典型的なものであるけれど生も死も超越した永遠の魂みたいなもの、神の存在というようなものへと思考を飛翔させなければ死について考えたことにはならないと思えるし、この辺の事を或る程度整理し人間的に解決し、人々を教化し感化したものが宗教であり、所謂哲学というものの本質ではなかろうか。 また、他の生き物とはちがう人間の人間たる特徴ではないだろうか。 つまり、生や死や宗教や哲学などにそれが多少無神論的であっては少しもそれらに考えを致さなければ動物と何ら変わらないと思える。 ありがとうございました 濱田朋久 |