[戻る] |
■ はなれ瞽女おりん | 2010. 7.15 |
水上勉原作の小説のタイトルで岩下志麻主演、夫である篠田正浩監督で映画化もされた大作名作であるけれど、原作本は絶版で書店でもインターネットでも入手不可であったので口惜しくてこれを書いている。 我ながら変な動機である。 物語は「瞽女」と呼ばれ、主に東北地方を中心に活動する盲目の女性達の愛と流浪の日常を描いたもので、誠に物悲しく数奇な運命を歩む哀れなひとりの女性の悲恋悲劇物語である。 時は明治。 日露戦争の真最中。 「男との情交を禁ずる」という瞽女の掟を破って「はなれ瞽女」となった美しい盲目女性おりんは仲間を捨て一人歌や三味線の芸とおのれの肉体をも売りながら旅をつづけておいる。 女の情欲というものもナカナカ手強いものであるらしい。 人肌を求めてさすらう女の旅姿は性欲を持った人間の激しい情念と業には、それが盲た美女であるだけにその迫力には圧倒させられる。 衝撃的な作品であった。 物語はひょんなことから原田芳雄演じる自称鶴川千蔵なる元脱走兵の下駄づくりの行商人と連れ立って旅をする羽目になった「おりん」はカラダを求めようともせず、また「おりん」の欲望にも応えず頑なに純愛をつらぬこうとするこの男をいつしか本当に愛し合うようになり、瞽女を辞め内縁の肉体関係のない妻のような「妹」となり「女の幸福」というものを心から味わうのであったが・・・。 鶴川が地回りのヤクザ者との喧嘩沙汰で警察に拘留されている間に、おりんに言葉巧みに言い寄ってまんまと情交を結んだ別の男を激情と衝動とで刺殺してしまい警察から逃走する為に離れ離れになってしまった。 これが悲劇の始まりである。 肉体的にも深く愛し合う幸福な男女も樹木希林演じる同じはなれ瞽女の女と二人旅をつづけていたおりんもとうとうこの殺人者で元脱走兵の愛する男と再会してしまったのだ。 執ように追う有能な僕吏によってついにつかまってしまってしまったのだ。 二人の哀れな男女は最後の面会を許されたものの男は処刑され、残されたおりんは愛を失い生きる意欲を失いとうとう山の中でのたれ死にしてしまうというまさしく真っ暗闇の物語ではあったが、瞽女達の仏心とか宗教心と愛欲とが逃亡者とはなれ瞽女という流れ者同士の愛と欲望が剥き出しに描かれ、人間の根源的ありようをまざまざと見せつけられ、現代に生きる生温いお遊びの愛などくらべものにならないとも思い、また本質においては全く差異の無い男女の愛の世界に普遍性へも考えを致し、いたく感銘と共感を得た映画であった。 今年観た最高の衝撃的作品かも知れない。 岩下志麻の熱演も凄味さえ感じられ、可憐でもあり憐れみも誘うものであり「女の美しさ」「女の悲しさ」を見事に演じ切っていて素晴らしいものであった。 映画というものはたった2時間あまりで他人の人生、異次元の世界へ一気に観客を誘い込み圧倒的な共感を導き出すという音と映像の人生記録であり大したものである。 これを書き終えてもう一度観ようとしている自分にも驚嘆させられる。 この映画から一体なにを感じ取り何らかのヨロコビを得ようとしているワケであるから、自分自身も含め人間というものへの興味は尽きない。 6才の時に捨て子として親切な薬売りの男に拾われ、盲目であるならと女郎かあんまか瞽女とかの選択の中で、瞽女屋敷の親方なら母親として優しく育ててくれ瞽女としての芸を教えてくれる・・・と仲間の同じ盲目の女性達と厳しくも温かい愛の中ですくすくと美しく育ったおりん。 耐えがたい性への欲望の為に掟を破り、男達の愛の中で生きることを選択し、親方様(育ての母)の教えのとおり地獄を見てつかのまの幸せも一瞬の幻のように終わりを告げコジキ瞽女のようにボロボロになって死んで行く・・・。 人間は愛がなくては生きて行けないものなのだろうか。 愛の替わりにお金を選択する女性もいて、或る意味ますます哀れだ。 幸福というものを標的に生きるのであればお金よりも愛する・ゆるすという選択をするべきではないだろうか。 「女の一生」「生きる」「愛」「男と女」「流浪」「漂泊」さまざまな思いを馳せさせる傑作映画であった。 それにしても原作を読みたい。 いつか映画をそのまま文章化して自分で読んで楽しもうかとさえ思う。 ありがとうございました 濱田朋久 |