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■ 昔の日本映画 | 2010. 7.14 |
最近のハリウッド映画の不作ぶりに飽き足らず、専ら昔の日本映画を借りまくって夜な夜な観賞している。 これがまた結構面白くハマってしまっている。 本も読まず、コラムも書かず深夜に2本程を毎夜飽きもせず観ているという次第である。 以下にその面白さを書きつづってみたい。 まず文化や風俗の記録映画としての面白さがある。 今とはちがうその言葉遣いの奇妙ななまめかしさ、懐かしさである。 「アナタ先にお風呂になさいます?それともお食事ですか?」 なんて現代の若い夫婦の間では決してかわされないであろう言葉のやりとりには、或る種のエロティシズムすら感じる。 「アタクシ、そんな言い方嫌ですワ」とか「ごめんあそばせ」なんて言うざあます言葉もユーモラスで面白い。 現代の若者の「チョー嬉しい」「マジ、好きッスよ〜」「ウザッタイ」「キモイ」とかそれなりに時代の流れに即応したものであると思うけれども、昭和も20年代30年代までの日本人の文化には何かしら細やかな思いやりの美風みたいなものが感じられて筆者にはとても好もしい。 会話とかコミュニケーションそのものに、今のように軽々しくないのである。 携帯電話もテレビもパソコンも電子メールも無い時代では、手紙や電報もしくは他家の電話を借りるとかの面倒な手続きがいっつも介在していて、人々のコミュニケーションにさまざまの工夫と技術とを要したのであるから当然であろう。 そこには表情や服装や態度、物腰、声や言葉の中身そのものに一定の手順があり、決め事があり、ならわしがあり、今風に言えば上品らしく見える。 ファッションに目を転ずると、女性はヒップを強調する為にウエストをギューッと締めつけたスカートを身につけ、白い清潔そうなブラウスとハイヒール。 結い上げて固めた髪。 男性は大概スーツにネクタイ。 これは外国の映画でも同様で、全体にエレガントで整った装いに見える。 それらの映画を観ていると、今はとにかく服装も言葉も態度や歩き方や物腰が汚い。 そもそもそのキタナサ、ダラシナサを強調している風にも見える。 そのような文化なのであろう。 「恥の文化」含羞がいたるところに滲ませてあって、当時もいたであろう背徳非道の輩の表すいかにも醜悪な言動や行動とかと対比させてあって、ますますもって興味は尽きない。 そういう微妙な美醜についての感覚の鋭さというものが30〜40年前の現代とでは著しい特徴と思える。 クルマのデザインなどでも、国産車がまだ外国車よりも性能のかなり劣っている頃のクルマは丸く重々しくつややかで、今よりもはるかに優雅で美しく見える。 当時自動車は貴重品、ぜいたく品、高級品でありステータスシンボルでもあったのだ。 路面電車や蒸気機関車、プロペラ機、街路や家の中に日常的に行き交う私服姿の女性達やスーツ姿の紳士達。 いずれもただのノスタルジーだけではない、何かしらの強烈な生活文化への美意識への「意識」というものを昔の映画には感じ取ることができる。 さらに昔の日本映画に出てくる人々の生活の特徴は、その「貧しさ」である 一部の特権的人々を除いて全体にとてもつつましい清貧、時には激しい赤貧が見られて、その厳しい生活の中で生きる人々の逞しさ、情愛の細やかさを見せられるにつけ、現代の人々の失ったものの多くが、その「豊かさ」「貧しさの喪失」によるものではなかろうかと思える。 いずれにしても携帯電話、パソコンなどの非常に簡便な通信手段と安易で低俗な傾向にあるテレビやゲームなどの大衆娯楽によって人々の精神がいくらか堕落せられていることにも気づかされる古い映画の数々である。 極めて陳腐な表現であるけれども、豊かな生活によって失ったものも大きく、それは金銭に対する執着とそれらに対する崇拝的態度や所謂泣き寝入りを嫌うエゴ剥き出しの自己主張の横行とそれら全部に対する羞恥心の欠如により多くの人々の精神がまるでゴロツキやチンピラ並に成り下がってしまったようにも思える。 理由のない不当な扱いについての忍耐の無さ、大人しくしていることのできない幼稚さ、社会性を欠いたワガママさなどなど立派な人間の持つ美しい心、それを支える思いやりの心、世界全体とひとつになる広く深い愛の心、人を立て自分を抑える忍耐の美徳、やりくり上手と言われるような簡素でつつましい日常による生活の美の創出への無頓着さなど、いずれも昔の美しい女優さんには数多くみられるので、美しく純心で魅力的な女性を目ざす人なら一見の価値がある・・・。 モチロンそういうことに全く無関心な人には懐古主義者のタワゴトにしか思えないかも知れない。 ありがとうございました 濱田朋久 |