[戻る] |
■ 野心と志 | 2010. 5.17 |
若い時はいくらか野心めいたものが人並みにあって、何かしらえらい人間になったり大金持ちになったり有名な人間になりたいなどいくらか子供っぽい幼稚で素朴な欲望があったのでそういう生々しい現実的な思念は幸か不幸かスッカリ消えてしまった。 その上欲望と言えば微かに残る性欲くらいで、うまい物を食べたいとか贅沢な暮しをしたいとか安楽な生活をしたいとかも殆んど感じなくなってしまった。 だからと言って聖人君子みたいに枯淡な清々しい立派な人物になったというワケではなく、生々しい中老のオヤジとして生活上の繁渣な欲望、たとえば清潔でカッコイイ服を着てオシャレに仕事を決めたいとか、何かしら素敵な人間に見られたいという欲求が少し残っていてそれを楽しんでいる風がおぼろげながら自覚として心の底にあるだけのようだ。 安物でも良いから粋なネクタイをアイロンのきいた清潔なワイシャツに締めて、気にいった腕時計や眼鏡やバッグやらボールペンなどの数百円のステイショナリーに少しだけ凝ったりして大袈裟に喜んでいる・・・くらいである。 そういう風に自らの心象を正直に書いていると何だか男として情けないくらい卑小で低俗で小粒な人間に成り下がったものだと、今年のNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の福山雅治という素敵な二枚目の演じる坂本龍馬などと引き較べて淋しい気分になることもある。 それでも無欲になった分、度胸みたいなものが心中に芽ばえて来て、生命とか金銭とか名誉とかプライドとかもうどうでも良いと思えるものを捨ててしまった状態から生じる或る種の開き直りと諦念をともなった人生観が志というものを生きる上で切実に、そして自然に行動に移せる方向に自らを向かわしめていると・・・最近感じている。 つまり生きる動機として純粋に「多くの人々に喜んでもらおう」とか「できる限り周囲を幸福にしよう」とか「少しでも人類の発展に貢献しよう」というような言葉で表現すれば少し大仰で大それた欲望を持たざるを得なくなっている考え方が生じて来ているのだ。 人間というものはややもすれば簡単に堕落するものであり、日常のささやかな喜び、例えば家族との暖かい団欒とか楽しい交友とかゴルフや麻雀やギャンブル、酒、女その他の諸々の趣味事に埋没してしまう。 その日その日を適当に生きることは或る意味とても貴重で大切な人生生活の滋養であり、人生そのものかも知れないが・・・、それだけでは何となく面白くない・・・というか淋しい。 使命感とか魂の成長とかいう高尚なものでなくても自分の人生に意味づけするというものでもなく、只純粋に何をしたいかと自らに問うた時に動物的欲望、たとえば性欲や食欲や睡眠欲や怠惰欲を取り去って一般のレベルで言う無欲になった時に生じる人間の欲望の純化したものは「愛する者たちの為に自らの生命を燃やすこと」と言えるのではないだろうか。 「武士道とは死ぬことと見つけたり」「恋の至極は忍ぶ恋と見つけたり」。 ご存知の「葉隠」の名文句であるが、死とか忍耐というものが決して否定的なものではなく明々朗々とした無心の中の純欲とも年を重ねて我が人生をツラツラと考えるに思えてくるから不思議である。 家族愛、隣人愛、人類愛、何でも良いがレベルが高く高尚な愛というものの価値はその数量でも質でもなくその心根にあるような気がする。 どんな心根かというと、これ見よがしの自己犠牲でもなく他者への愛でもなく自他が一体化して自らの生死が自然にこの世界と調和して咲いては散ってゆく桜の花のような潔く美しい大自然の摂理そのものの中に必然と生まれる、それぞれ個人個人の心の内に純粋に生じたやむにやまれぬ動機というか、通俗的に表現すれば「浮世の義理」のようなものではないだろうか。 ありがとうございました 濱田朋久 追記 桜と志、これはその名のとおり女と男と見ることもできる。 「志」の士の心とは男の心である。 だからこそ桜に女という字が入るんでしょう。 志というのは男のモノなのだろうか。 ちなみに「玉砕」というのも女はしないそうである。 そりゃあそうでしょう、女には球がないもの。 これって差別的発言? |