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■ 「遊び」の原点 | 2010. 5.17 |
大人の男の遊びというと「飲む・打つ・買う」。 つまり酒かギャンブルか女かと言った具合に昔からあまり変わりばえのしない、古典的というかワンパターンというか独創的なものは少ないようだ。 趣味と言ってもせいぜいゴルフだの囲碁だの将棋だの盆栽から釣り、クルマ・オートバイ・ボートなどの乗り物系か、スポーツ、ギャンブル(勝負事)など分析すればする程悲しいくらいパターン化されていて面白くない。 大人の男にとって一番面白い「遊び」は仕事である筈であるけれども、多くの人々にとって仕事は普段苦役であり時間の切り売りであり、生活の糧を得る手段と成り下がっている。 所謂、社会的に「成功者」と呼ばれる人々は仕事を遊びや趣味と同等に「楽しい事」としているが、フランスの哲学者アラン(本名はエミール・オーギュスト・シャルティエというらしい)も書いているようにそれを楽しんでいる人はそれについて有能である証であると言い切っているので、仕事で有能=仕事を楽しんでいる人ということになり、これらの人々にとってバカンス、例えばハワイや南仏やフロリダやバリ島など世界中に散在している一般庶民が憧れるような高級リゾート地ですら単なる仕事の骨休めに過ぎず、本来の楽しい場所では無いことが多いと聞く。 我々凡人としては羨ましい限りですなぁ〜。 話を戻すが「仕事以外は全て遊びである」と断言した日本人の或るハードボイルド系の作家、確か北方謙三であったと思うが、仕事を遊びにしている人にとっては人生丸ごと遊びであるとの見方もできる。 仏教思想の中にも人生は「遊戯三昧」という言葉に通じるものがあり、このような境地に至るならば生きていること自体が遊びでワザワザ酒を飲みに出かけたり、何やらの勝ち負けを争うバクチ場に出入りすることもなく人間の快楽の極限的なヨロコビの世界である男女の性的快楽とか喰らうとか人間の主に本能に根ざした快楽の追求に走るかであるが、いずれが面白く楽しいかは個人の問題であるので敢えてモノ申すまい思うが、個人的な見解として遊びの原点を「脳の快楽」と仮定するなら酒の世界、ギャンブルの世界、性の世界、その他さまざまなゲーム的な要素を持つ世界と多種多様に存在するかに見えるが、極言すれば全てヒマ潰しなのではないかと思える・・・時がある。 「生きる」ことに真剣であればある程逆に人生全体が「ヒマ潰し」に思えてくるから、筆者の精神が相当マイっているのか、考え方が厭世的で孤立しているのかよく解らないけれど、もっと言い方を変えるならば「人生をただのヒマ潰し」に見てしまう筆者の快楽感知装置の鈍麻と言えるかも知れないし「心の老化」と言えるかも知れない。 いずれにしても何をしても面白くない。 何もしたくないというのは鬱病の症状であるので急いで治療した方が良いかも知れない。 早くも無欲括淡として来たワケではなく心身の活力低下とも思えるが、遊びの原点に立ち返ってもう一度酒やギャンブル(ゲーム)や女の世界に飛び込んでみようとも思うが何だかそれが後戻りでしかなく、もう引き返せない遠い海原の果ての無人の離れ小島に泳ぎ着いてしまった孤独な中老の男として感じている今日この頃である。 動物、特に人間は脳に快楽が無くなると死んでしまうらしいが、そう思うと今の心の状態は心細い。 すべてを遊びに考えるにはやはり好奇心が必要であり、好奇心の為には性的エネルギーが必要と思えるので、何かしら精のつくものでも食べて脳の快楽を取り戻すべく行動を起こさなければ生命が危ないとまで感じてしまう。 一体どうすれば良いのだろう。 ありがとうございました 濱田朋久 |