コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 期待しないという生き方2010. 4.23

期待という言葉は概ね良い意味として一般に捉えられていることが多いようだ。

「期待される人間像」
「期待に応える有能な人間」
「何か期待できそう」
「君には期待してるヨ」
このような表現はいかにもそれこそワクワクしそうな心地良い響きを持って耳に届けられそうではある。

しかしながら一方では「期待にそわなければならない」「こたえられなければならない」など「〜ねばならない」として相手に受け取られた場合、それはプレッシャーとなって自分や相手を苦しめるだけでなく、時に「今のアナタの現状ではダメですヨ」という風に受けとめられかねない。
言いかえれば、相手に不平とか不満とかを微妙に表現しているのが期待という言葉の難しさである。
期待に込められた他者への自分の欲求はそれが満たされなかった時、裏切られた時の失望と欲求不満をお互いに味あわされる可能性を孕んでいるのだ。

モチロン良い期待もある。
これはスリリングな展開のサスペンス映画とかロマンスハッピーエンド映画などで味わえる、この先どうなるんだろうという不安の混じった楽しみワクワク感のともなう期待感だ。
つまり未知の未来へのあらかじめ決められていない物語展開への好奇心をそそられるというのは、このようなアミューズメント類の快楽の本質でもあるからだ。
その上映画のようなものは所詮他人事なので、このような恐れに満ちた未知未来を気軽に楽しむことができるのである。

皮肉なことに全く期待しないで他人事のように自分の未来を多少「いい加減」とも取れる心的態度で臨むならば、それはすべて「楽しみ」となる・・・かも知れない。

先日或る憂鬱になるような会合があって、会いたくないなぁとか思いつつクルマを運転しながら自分自身にその理由を問うてみたら、何かしらの相手に対する期待みたいなもの、それも「こうであって欲しい」とか「こうであればいいなぁ」とか「こうであるべきだ」とかの予断とか予測とかではなく期待そのものをいっぱい持っていたことに気づき「これではいかん」と一切の期待をうち捨てて会合点に向かったところ、殆んど何の心的痛苦なしに会合することができ、また逆に上首尾とまではいかなくても会合そのものに対するそれが可能であったことと、それ程の苦しみを持たず接することができたことを我ながら喜ばしく思えたのでこの心の顛末を記している次第である。

こういう感覚や考え方は人生全般についての心的態度としても面白いのではないだろうか。

スティーブン・スピルバーグのアカデミー受賞作品の「シンドラーのリスト」では、ナチス時代のヨーロッパのユダヤ人達にこれでもかこれでもかと次々に襲いかかる残酷で悲惨な不運不幸な境遇に遭わせられ「死んだ方がマシ」とつい口走ってしまった仲間に「これからどんなことが起こるかしっかり見てみましょう」と言って勇気づける言葉が印象的であったが、これも或る意味期待の快・不快の2面性を物語っている。
不安か、それに似たワクワクか・・・という風に。
人生というのは考えてみれば或る意味「一寸先は闇」というのが実相であるのだ。
明日のことは誰も分からない。
歌の文句に「明日があるさ」というのは嘘で「明日とかは本当には無い」のだ。
明日になれば今日になってしまうし、中には明日が来ない人もいる。
それでも「明日がある」と言い張るのは或る意味とても楽天的とも思えるが、真の意味で現実を直視しないで今を真剣に生きることを放棄していると言えるかも知れない。
明るい未来のことを明日と呼ぶのならまさしくその字義のとおりであるが、何も期待しない明日に、そしてその長さを問わず未来に何の期待もせず、どんな事態についても楽しみと思えるような柔軟でしなやかな心で臨むことこそ真の意味で勇気のある時宜に応じた適切な行動を生むのではないだろうか。
近々に一身上に起こっているさまざまのトラブルも、この自分の「勇気の無さ」から生じていると思えるが、それは自分や相手に対する強い期待によって現出している恐怖に根ざした「勇気の無さ」のように思える。

期待を楽しい予感に変えるのは、逆説的であるが何も期待しないことによって生まれると今は考えている。

ありがとうございました
濱田朋久



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